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越後の親鸞 
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ご旧跡めぐり
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心の文化財 曽我・平澤記念館
心の文化財 曽我・平澤記念館
所在地 〒950-1261
新潟市南区味方213  電話025-373-6600
URL http://www.city.niigata.jp/info/minami/facility/kinenkan.htm
休館日 月曜日(休日の場合は翌日)、休日の翌日(土曜日が休日の場合、火曜日)年末年始(12月28日~翌年1月3日)
拝観時間 午前9時から午後5時まで
アクセス :北陸自動車道巻・潟東IC.から460号線を味方方面へ直進、旧笹川邸に向かい約20分
電車:新潟駅から新潟交通バス「味方経由月潟行き」 「味方経由潟東営業所行き」で約50分、「笹川邸入口」下車徒歩3分
駐車場 あり
拝観料 (旧笹川家住宅と共通)
大人(高校生以上)500円
小・中学生     300円
※ 個人(20人以上)は100円引き
   土・日・祝日は小学生・中学生は無料
パンフレット あり(300円)旧笹川家住宅解説書
曽我・平澤記念館に両氏の関連書籍、記念手ぬぐいを販売
付近地図 江戸時代に旧村上藩の大庄屋を務めた笹川家の旧屋敷も拝観できる。岩室温泉や弥彦山、寺泊観光へと足をのばすこともできる。
地図

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曽我・平澤記念館正面 曽我量深・平澤興ポートレイト

 <心の文化財 曽我・平澤記念館>      
【 説明 】
 この記念館は、旧味方村出身の、浄土真宗の僧侶で、昭和の親鸞と呼ばれた曽我量深と、脳神経解剖学の世界的権威で、京都大学総長を務められた平澤興の偉大な功績をたたえて、平成3年に開館した。設計は香山壽夫で、鉄筋コンクリート造・木造2階建になっている。
 1階の曽我の展示室には、年譜にそって生涯にわたる講演の抜粋文や写真によって彼の思索の変遷を辿り、また遺稿や愛用の遺品、書や色紙などから人柄を偲ぶことができる。曽我氏と金子大榮氏との往復書簡『両眼人』に掲載されている書簡も展示されている。
2階は企画展示室で、3階の望楼へ登れば、隣接している旧笹川家住宅や越後平野をはじめ、偉人である二人を輩出した味方の景観が楽しめる。

 曽我量深(そがりょうじん)は仏教や真宗の教学を、近代教学を開いた清沢満之の求道精神を原点に、幅広い視野と深い信念によって捉え直し、さらに親鸞の著した『教行信証』を徹底的に研究し壮大で独創的な思索を展開した。仏教を近代思想界に開放した功績は顕著で、近代仏教思想史に大きな足跡を残した。
 曽我量深は、『仏説無量寿経』の法蔵菩薩を、人間の最も深い深層意識の阿頼耶識であるとの信的直観を得て、衆生の罪業を背負って立つ法蔵精神を見いだした。法蔵菩薩は我々衆生のために修行を完成され、本願を成就して阿弥陀如来と成られた。曽我は、衆生が菩提心を起こして因位の菩薩となり、様々な修行を積んで仏果へ向かう「従因向果」に対し、真宗は「従果向因」で凡夫が「南無阿弥陀仏」という無上の仏果を回向されて、その回向される力で因位の菩薩道を行じさせていただく道と明言している。
 曽我は「法蔵はわれなり、われは法蔵にあらず」と語り、法蔵を我が心とするとき、一切の万物とも感応道交することが出来ると説いている。展示してある扇子には「感応道交の神力能く 苦悩の衆生を招喚して 純粋象徴の自然無生の 国土に帰入せしむ」と書かれている。「感応道交」の捉え方も曽我独自のものがあり、「南無阿弥陀仏を念ずる処に開ける仏と我との響き合いは苦悩する我を召して、すべてのいのちの本源(ふるさと)である浄土に帰らしめてやまない」と説いている。

 その生涯は、明治8(1875)年に新潟県西蒲原郡味方村円徳寺冨岡量導の三男に生まれ、明治30(1897)年23歳で見附市浄恩寺曽我慧南の養子となった。曽我は『無尽灯』などに寄稿し、早くから頭角を現す。寄稿で清沢満之の精神主義を3度にわたって批判したが、清沢は曽我を真宗大学の教授に大抜擢する。明治36(1903)年、浩々洞(清沢満之を中心とした私塾、雑誌『精神界』を発行)へ入洞したが、僅か3ヶ月後に清沢が逝去。他力の信念を実際に教示された期間は短かったが、「善知識」として師清沢への謝念と讃仰は大きく、生涯を通じて、宗教哲学に立脚した清沢の思想を親鸞の仏教史観に繋ぎ展開していった。
 翌年、真宗大学研究院を卒業し同大学の教授に就任するが、明治44(1911)年、真宗大学の京都移転に反対して辞職。帰郷して、研究・思索の生活に入った。暗い世相を映して浩々洞の仲間たちが信仰の動揺を見せるなかで、新潟の地にあって6年間宗学の灯をともし続ける。
42歳、清沢満之が創刊した雑誌『精神界』の編集責任者として上京。その後?、東洋大学、大谷大学で教授となるが、昭和4(1929)年、『無量寿経』に説かれる法蔵菩薩を阿頼耶識とする説が異安心とされ、翌年、同大学を退職。その後も自説を堅持し、興法学園で金子大榮とともに活躍し、多くの著作を著した。昭和16(1941)年大谷大学教授に復職し、その後名誉教授や学長を務めた。
 昭和36(1961)年、曽我は、宗祖親鸞聖人七百回御遠忌で「信に死し願に生きよ」の講題で記念講演を行った。この講演が契機となり、真宗同朋会運動を生み出す根幹となった。
また、昭和40(1965)年講題「我如来を信ずるが故に如来まします」の記念講演で、清沢満之に学生時代に問われた「おまえは如来があるゆえに信ずるのか、また、われわれが如来を求めるがゆえに如来があらわれたもうか」を人生根本の課題として思索し続けたことを語り、さらに、宗教は救済だけではなく、同時に「自覚自証」の教えであることを明らかにした。
昭和43(1968)年には、味方村から平澤氏と共に名誉村民の称号を贈られた。
晩年は、宗派や学問の枠を超えて、日本中に待っている人々がいるほど全国を熱心に布教してまわり、昭和46(1971)年97歳で寂滅。その生涯は、凡夫の自覚に徹し聞思する「生きた信仰」として内観の仏道を歩み続け、仏教の世界観を自らの信仰体験を通して表現した人であった。
曽我量深の展示室風景 曽我の生家、円徳寺(記念館から徒歩3分)


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