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佐々木の太子堂
佐々木の太子堂、親鸞聖人作の聖徳太子像
所在地 新発田市佐々木240の1
URL
拝観日 事前予約が必要
拝観連絡先 〒957-0082
新発田市佐々木2890-1
総代 横山 高  TEL:0254-27-8526
アクセス :聖籠I.C.を降りて、県道3号線を佐々木方面へ、佐々木の信号から豊栄・新潟方面へ右折して、佐々木の歩道橋の右手。
I.C.から約2km(約5分)
バス:バスセンターから、新発田行きに乗り、「佐々木駅前」下車徒歩5分
(1時間に1本程度)
電車:新潟駅から白新線に乗りかえ、8番目の「佐々木」駅下車。徒歩5分
駐車場 あり
パンフレット 「日本三太子 佐々木聖徳太子御縁起物語」
田中 正治謹編 昭和33年発行
付近地図
地図
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宝物
聖徳太子御木像 (伝:聖徳太子作)
聖徳太子御木像 (伝:親鸞聖人作)
聖徳太子御木像 (養福寺二代目住職が寄進)
   
聖徳太子像(伝:親鸞聖人作) 聖徳太子像 (養福寺2代目住職が寄進)

 <佐々木の太子堂、親鸞聖人作の聖徳太子像>

【 由緒沿革 】

 佐々木の太子堂には、地域の人々の熱心な聖徳太子信仰によって、秘仏として大切に守られてきた聖徳太子像が3体祀られています。
 佐々木という地名は、福島潟に注いでいる佐々木川の河口から突き出した沙先(岬)が佐崎、佐々木へと変化したと言われており、鎌倉時代から船着場や絶好の漁場として栄えたところでした。
 1202(建仁2)年、村人たちが湖水に異様な光を見つけ、舟で網を引き上げると聖徳太子の木像が現れました。村人は村を守護して下さる有難い本尊様だと大喜びし、現在の上通り四ツ角付近の大杉の空洞に安置しました。その御木像の引き上げられた場所を村人たちはいまも太子潟といって語り伝えています。

 越後に御流罪になられた親鸞聖人は1212(建暦2)年に赦免となり、鳥屋野潟に草庵を結ばれ、鳥屋野潟から安田、水原へと、湿地帯を舟で行き来されながら布教しておられました。親鸞聖人が交通の要所だった佐々木に立ち寄られたときに、道端の杉の洞に祀られている太子像をご覧になり、村人たちに太子像の湖水出現の因縁を聞かれました。

 親鸞聖人は村人たちに、この太子像は聖徳太子御直作の自身像であり、聖徳太子様が仏教興隆のため、自ら16才の姿を三体お刻みになり、難波の浦の岸辺から「この像の着いたところを有縁の地と定め将来長くお祀りしてくれるように」と願われ流された日本三太子の中の一体であり、その他は大阪の四天王寺と河内国太子堂にある勝軍寺に安置されていることを告げられました。

 親鸞聖人は、尊像が洞中で風雨に晒されているのを嘆かれ、しばらく逗留されて小祠を建てられ、自らも一体の太子尊像を刻み、供養されました。親鸞聖人が刻まれた像は、聖徳太子16才の時の孝養の御像といわれ、御腹籠り(おはらごもり)の太子とも言われました。御腹籠りというのは、親鸞聖人が刻まれた太子像の胎内に太子潟よりあげられた御本尊が納められていたからと伝えられています。親鸞聖人が刻まれた太子像の話は近郷一帯にたちまち知れ渡り、全国から参拝に来られるほどその名を知られていました。例年4月15、16日に賑やかな太子祭が執り行なわれています。

 さらに時を経て、寛永年間の出来事でありますが、新発田藩と天領(幕府の直轄地)との境界争いが起こった時に、新発田藩からは郡奉行の窪田太郎介が交渉することとなり、決裂した場合には死をもって責任を取る覚悟で立合検地に出かけました。この難儀に思案しながら太郎介が佐々木の村中にさしかかった時に「太郎介、太郎介」と三度呼び止める者があり、見ると、道端に16才位の可愛い御茶坊主が立っておられ、「我は佐々木の太子様なるが、汝不断の信仰厚きにより、本日の掛け合いは必ず勝たせてつかわすから首尾よく参られよ。」と言われるや否や御姿が消えていました。太郎介は歓喜し、勇気づけられました。新発田藩と幕府側の話し合いは決裂しそうになりましたが、彼の機知といのちをかけた剛胆な度胸で幕府側が非を認め、永い間揉めていた境界線の問題に終止符を打つことができました。新発田藩のお殿様は大層喜び、これはひとえに佐々木御太子様の御加護の賜と御礼参りに行かれ、供物料を御寄進されました。その話を聞いた近郷の村人たちはますます太子様を敬うようになりました。

 そして、時は経ち、窪田家4代目の窪田太郎介は、1733(享保18)年河渡の渡し場に来ると、一人の気品のある若い坊さんが「佐々木の番所へ帰るものですが、宜しく願います。」と太郎介の側に座りました。旅は道連れと話を親しく交わし、舟が佐々木へ着くと坊さんは「近いうちに良い報せが届きましょう。」と何か意味深長な言葉を残し舟から上がって行かれました。それからいくばくも経たないうちに、突然新発田藩の殿様からお役目御殊勝であると扶持米五十石加増を賜ったのでした。太郎介は予言の通りだったので御礼を申し述べようと坊さんを尋ねて佐々木村へ行きましたが、誰もその坊さんを知る者がいません。すると一人の老婆が「あなたが捜していらっしゃる方は太子様ではござらぬか。」と言われ、太郎介もあの坊様は太子様の化身であられたかと感泣し、この事が奇縁となってますます太子様を厚く信心し、太子堂の造営に着手したのでした。

 現在の太子堂は、拝殿と本殿を長床(廊下)で連結した八幡造りになっていて、拝殿造営は慶長年間と元禄年間の2説がありますが、本殿は棟札から建立が1735(享保20)年であることが判明しています。
 1610(慶長15)年頃に新発田藩領主の溝口重元公から境内地として五反を御寄付頂き、後に家老となった窪田家の献身的な尽力と、近郷近在の村人の扶役奉仕に支えられ、立派な社殿が完成しました。
 太子堂は江戸時代中期からは名主を中心に、明治からは年番を中心に管理運営にあたっていましたが、1884(明治17)年の社寺法制定後、曹洞宗養福寺の末堂となり、信徒総代(3名)と堂守(6名)で管理されています。

 以前は所有地が7反ほどあり、その入付米と賽銭を維持費にされていましたが、戦後GHQ に没収され、現在は念仏講中と地域とで太子堂を支えています。
 それぞれの太子像の機縁を辿ることは、同時に佐々木という土地で生きた人々の歴史を検証していくことでもあります。それほど佐々木の人々が、聖徳太子を敬い感謝する心を持ち続け、太子堂を中心として生活が行なわれていたことに驚きと感動を感じました。

 その他の伝承としては、元禄時代に熱心な真宗門徒の百姓が不作のため年貢が納められず、娘を泣く泣く遊女に売り、その帰り道に盗賊たちに襲われたのですが、15才前後の少年が現れて泥田のなかで盗賊と格闘して金を奪い返してくれました。その少年は「我は佐々木の太子堂に住む者で、今宵泊まっていくがよい」と告げて立ち去りました。そこで感謝して太子堂にお参りにいくと、太子像の足元が泥で汚れていたことで太子様の化身が救ってくれたことが分かり、その評判によって太子堂に多くの方がますます参拝するようになったという話も残っています。
   
佐々木の太子堂と堂守の皆さん 聖徳太子像(伝:聖徳太子作)


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