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「あたりまえ」から「不(可)思議」へ

田澤一明師(新潟市庄瀬 明誓寺)
 私のてもとに額に入れられた一枚の書があります。それは書道を学んでおられる方から、以前私が譲り受けたものです。そこにはこういう言葉が書かれています。
        「あたりまえの幸せを
         あたりまえだから気づかない
         あたりまえの幸せは
         失くした人だけが知っている」
 その方は長年、股関節症という病気をわずらい、数度の手術を重ねている方でした。(股関節症とは、股関節がしだいに壊れてゆき、しまいには歩くことができなくなってしまう症状だそうです。)ある時、同じ股関節症にかかっている人の手記を読み、その中にあった先の言葉に出遇いました。そして深い共感を持って、一つの作品に仕上げました。
 歩く、走る、行きたい所へ行ける。それはできる人にとっては何でもない「あたりまえ」のことです。あたりまえであるが故に、それが大きな幸せであり喜びであることに気づきません。それどころか眼を向けようとさえしていません。
 考えてみれば、私たちはどれほど多くのことを「あたりまえ」にしていることでしょう。とりわけ誰もの一番根源にある<生きていること>は、最もあたりまえのこととして、ほとんどかえりみられることはありません。
 あたりまえと見なすということは、そこを0地点と見なすことだと言ってもいいかもしれません。その上で私たちは、何ができるか、何をしたかというところで自分や人を見、評価し、優劣を競い、一喜一憂しています。その0地点から少しでも多くのものを積み上げることによって、より豊かに幸せになれるのだと思い込んでいます。
 しかし本当にそうでしょうか。
 仏教では「不(可)思議」という言葉がよく使われます。それは、私たちがあたりまえと見なし、0地点と思いなしている<生きていること>そのことに、すでに限りない豊かさがあったのだという、深い驚きと喜びをともなった発見の言葉であろうと思います。
 自分が今ここに生きているという事実に対して、「あたりまえ」と感じるのか、「不思議」と感覚するのか。現象としては何一つ変わらないにも関わらず、そこには大きな隔たりがあります。
 いのちの重さ・尊さが見失われつつある時代にあって、「不(可)思議」という感覚の回復こそが、今求められているのではないでしょうか。


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