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ひとえに本願をたのみまいらする

草間 法照師(小千谷市時水 勝覺寺)
 近ごろ問題になっているものに後期高齢者に関する医療制度があります。制度の内容もさることながら、「後期」という呼び方に、これでは姥捨てと同じではないかとの憤りの声もあります。しかし、「高齢者」という呼び方にもひっかかるものがあるのではないでしょうか。
 いつのころからか「高齢者」という言葉が使われるようになりました。昔はあまり使われなかった言葉だと思います。聞くところによりますと、この言葉が使われるようになった背景にはある種の意図があるようです。それは65歳以上の人が4人に1人という社会の到来を目前にして、これからの社会は依存者ばかりでは立ち行かないという危機感をもった国や自治体が、彼らから依存者・弱者・要介護者といったマイナスのイメージを払拭し、代わりに経済的にも精神的にも自立し、生きがいを求め、積極的に老いに対処する人といったプラスのイメージを育てようと、意図的に「老人」という言葉を避け、高齢者という言葉を多用するようになったということのようです。ちなみに、「老」という漢字は髪が長くなって腰の曲がった人が杖をついている姿からできました。老人はいい言葉です。
 しかし、老いが人間に不可避のことであれば、自立的な高齢者もやがては要介護者となります。そのとき過剰な自立幻想はかえって高齢者を苦しめるものになりましょう。「こんなざまになっては生きていてもしょうがない」ということです。
 そこで思い出しますのは前川五郎松さんの言葉です。前川さんは福井県の人で真宗の教えを喜びつつ90半ばの人生を送り、味わい深いたくさんの言葉を残されました。その一つに「姥捨ては昔話と思いしに、山はだんだん近なって、嫁や息子の胸にある」というのがあります。
 老人遺棄の伝説は洋の東西を問わずあるさうですが、その遠いはずの姥捨山が今や嫁と息子の胸にまで近づいたというわけです。ちょっと気になる物言いではありますが・・・。
 ところが、前川さんは続いて「姥捨ては嫁や息子の胸じゃと思うたが、よくよく阿弥陀に相談したら、爺々の胸底谷底にあり」とも言われたのです。ここが凄いところではないでしょうか。
 この二つの言葉から私たちは老いの問題は社会や福祉の問題であるだけでなく、主体的な問題でもあることを改めて知らされます。実は仏教が昔から取り上げていた「老苦」は主として後者の問題です。
 いのちの本来においては若さと老いとは対立しません。あるがままに静観されるだけです。しかし、そこに人間は分別という知恵を持ち込みます。価値判断です。それによって静かな水面に対立と矛盾の波が立ち、これが人間を苦に陥れます。分別の心は畢竟差別の心です。差別といいますと世の中には色々な差別があります。それらはすべて他人に対していだくものですが、分別・差別の心は最後には矛先を変えてこの自分に向かい、「こんなざまじゃ死んだ方がましだ」と言わせて苦しめることもあります。
 一体どう老いと折り合いをつけたらいいのでしょうか? それは「よきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらする」(『歎異抄』)ということに尽きます。この教えを老いの只中で確かめるとすれば、「ヘトヘトになって ここまできて まだ私がここにいるのには なにかふかいわけがありそう」といった受け止めとなりましょうか。これは老いたある念仏者の詩の一節です。

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