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聞き合うということ真宗の人間観人間を人間と見ること難し前半/後半

聞き合うということ 太田 清史 師

自己一致
 先ほどのワークショップで、普段なかなか体験しないような出会いをしていただけたかと思うのですが、少しそのことの意味を、教えに聞いておきたいと思います。
 私たちが相手の話しを本当に聞いていくというのは、なかなか難しいことだと思います。人生を長く生きたから聞ける人になるかというと、決してそうではないようなのです。どんどん自分の思い込みのほうが優先してしまって、会話をする以前からその人の評価を決めてかかるというような世界に、自分自身を追い込んでしまう場合があります。







 いま、みなさんに「WAIテスト」つまり「Who Am I?(フー・アム・アイ)私は誰か」ということを二十項目書いていただくテストをしました。それをもう一度、見なおしてみてください。どんなことを書いていらっしゃるでしょうか。
多分、それらの一々を整理してみると、ある種の分類ができると思います。どういうふうに分類できるのかというと、私は男であるとか、私は女であるとか、例えば私でしたら、私は太田清史という名前であるとか、私はどこそこに在住しているとか、四人兄弟の末っ子であるとか、こういうふうなことはいくらでも書けるわけです。このことは一つの動かない事実です。こういう部分の私たちというのを、その言葉のとおり「リアルセルフ」、本当の自己自身ということができます。
 ところがだんだん後半になってくると、私は人と付き合うのが苦手であるとか、私は甘いものが好きであるとか、私はあの人と比べると勉強ができないとか、私はカレーライスが好きであるとか、こういう感想がどんどん出てきます。このような自分自身の「感想」であるとか、「想い」というものを自分自身としているときというのは、出会う人と場所によっては、ときどきその意味が変わってまいります。例えば、私は甘いものが好きであるといっても、隣に私よりももっと甘党の人がいたら、その人から見れば私は甘いものが嫌いになってしまうわけなのです。つまりその周囲の環境によって動いてしまう。そういう自分像というものを、私どもは、自分そのものだというふうに、思い込んでいるケースというのがよくございます。これを「アイデアルセルフ」つまり考えている自分と位置付けます。
 私たち自身が人前に出て、どんな人とでも平気で話す、人と話すときに緊張したり、関西弁で言うとビビッたり、そういうことをしないで、ありのままの自分でリラックスしていられる世界というのは、実はその二つの自分が重なっている部分で行動しているときだと言えます。人も、あなたがそんな人だと思ってくれているし、自分から見ても自分自身をそういう自分だということに一致が見られる。この部分のことを、「自己一致」というふうにいいます。
 こういう自己一致の世界、つまり考えている自分と本当の自分というものが重なっている部分で生きているときには、私たちの生き方は実に生き生きと、ありのままに、他者に気兼ねをしたりしないで、自分自身の生き方ができるという世界であります。
 もう一つ、「ジョハリの窓」という理論を紹介しておきます。ジョハリというのは、ジョンという人とハリスという人が考えてつくった理論なので、ジョン&ハリスで、「ジョハリの窓」といいます。

自分
×
他人 明るい(意識) 気付かない
× 隠している 暗い(無意識)
<「ジョハリの窓」の図>

 これは何を意味しているかというと、私のなかにある四つの窓を意味しています。どういう窓かというと、全部私なのですけれども、私のなかに四つの要素が考えられる。
 自分自身から見てわかっている自分と、わかっていない自分。みなさん、全部わかっているとは言えないでしょう。自分のなかでまだ不可解な自分というのがおありでしょう。なぜ私はこんなことをしてしまったのだろうと思うわけです。どうしてそんなことが起きるのか。自分だといいながらも、わかっている自分と、わからない自分がやはりあるでしょう。
 同様に、他人から見て、例えば自分の配偶者が、「おまえはわからないやつだ」と言うかもしれません。相手のことを見て、他人が知っているあなた自身と、他人は知らないあなた自身というのはないでしょうか。これはたしかにあると思います。
 先ほどの自己一致の部分というのは、この「ジョハリの窓」では自分も知っているし、他人も知っているという部分に相当します。この部分は自己一致的な自分ということが言えます。言い方を変えたら、これは「明るい自分」と言えます。どこへ出しても公明正大な、卑屈になったり、自分自身を卑下したりする必要のない、明るい、常に光の当たっている自分ということが言えます。こういう世界で生き生きと生きていけば、私たちは本当に屈託なく、自分の人生を謳歌できるということになるのかもしれません。
 その一方では、自分も知らないし、他人も知らないという自分が、ひょっとすると、私たちのこころの深いところにはあるのかもしれません。心理学の世界ではそれを深層心理なんていうふうにいいます。この世界の中には、実はさまざまな無意識が潜んでいるかもしれない。無意識を一番感じられるものとしては、みなさんが夜に見る夢の世界はだいたい無意識の世界なのですが、たまたま意識の世界に、ちょっと顔を出してくれるのが夢の世界です。だから精神分析家などは夢を非常に大事にします。夢には全然わけのわからないものが出てくるわけです。なぜこんな夢を見たのだろうという。そういう不可解な部分を私たちは持っています。でもそれは普段の生活を脅かしませんから、これは無意識のままでも、もちろん良いわけなのです。
 残りの二つの部分に名前を付けてみたら、どうなるかということです。まず自分は知らないけれども、他人は知っている自分。人に言われて、私はそんなことをしましたか、そんなところがありましたかという自分です。これを言葉にして言うならば、「気付いていない自分」ということになります。
 その一方で、他人は知らないけれども自分はわかっている。これをどういうふうに言いますか。タンスの中のヘソクリとかというものを考えてみたらわかります。他人は知らないけれども自分は知っている。それはつまり「隠している自分」というわけです。
 私たちの中には、自分、自分というけれども、ちょっと考えただけでも、こういう四つの窓で仕切られているような自分というものがあります。

自己受容
 ユングという心理学者が言うのですけれども、自己実現(セルフリアライゼーション)というような概念があります。自己実現というのはいったい何かというと、この自己一致の部分をできるだけ大きくして、私たち自身がこころの全体性を獲得して生きていけたら、「本当に私たちは楽ですよ」ということを言うわけです。
 そのためには二つのことが必要になってきます。どういうことかというと、この縦の軸をどんどん右に移動させていくことと、横の軸をどんどん下の方に移動させていくことが必要になってきます。そのためには何をしなければならないのか。それは、気付いていない自分に目を開くということ。つまり人からいろいろな指摘を受けたときに、これが今日の課題の一つなのですが、その人の言うことをちゃんと聞き取れるかということなのです。私たち自身が人から指摘されたそのことを、受け入れられるかどうか。自己受容などといいますが、「そんな自分があったのか」というような受け止めです。もう少し自分が人の声に耳を傾けて、人の言うことも受け入れていったら、「生き方が楽になるのに」という世界もあるわけなのです。
 それと同時に、自分は知っているけれども、人は知らない、人の前で隠している自分というのがあります。私は学生たちに自己受容ということをテーマにして、これは一つの社会科学的な技法なのですけれども、自分史というものを書かせることがあります。
最近は大手の出版社が「自分史セット」とかといって、普通の人が偉人みたいな伝記を書くような様式を販売している場合もありますが、そんなものでは決してありません。私たちのこころの問題というのは、それが精神疾患のレベルになると、だいたい20歳ぐらいまでのところでたいてい発症します。思春期の娘さんをお持ちだったらよくわかると思うのですが、若い子たちのこころの中では本当に目まぐるしく、毎日の状態が変わってまいります。こころの中に常にいろいろな波風が立っているような状態。そういう波風の立っているときに、自分自身を本当に受け入れきれない。それが思春期の自殺などにもつながるのです。その子たちに、自分の今までを振り返ってみて、自分の気持ちのなかで、未だに済んでいないようなこと。例えばクラブ活動のときに友だちを裏切ったとか、ある子をいじめたとか、そのときのことを思い出すと、いまだに悲しくて、寂しくて、どこかに消えてしまいたいというような思いになる。そういう自分のなかの、まだ済んでいないこころのモヤモヤ、葛藤、そういったところに焦点を当てて、原稿用紙4、5枚程度に、そのときに自分がやったこと、そして周りの人たちの反応、そのときに感じたことなどを、短い文章のなかに表現するという作業をしてもらうことがあります。
 その作業はただ書くだけではないのです。そんなものはインターネットのサイトの中に氾濫しています。それを生身の自分が、聞いてくれる人たちを相手にして、その文章を自分で読むということを最後の課題として出します。
 ですから、やはり信頼できる環境のなかで、小さい、全員が見渡せる十人内外の、ゼミとかグループでやるのが好ましいのですけれども、そういうところで、自分の過去を、いままで誰にも言っていないことを人前でその子たちが語るとどうなるかというと、ガタガタ震えながら、また、ある子は声を震わせながら、涙を流しながら、あのときは友だちがやれというからといって、「自分はそんなことはしてはいけないと思いながらも、あの子をいじめてしまった」。そのことを思うといまだに後悔があって、「その子の家の前の道をいつも通ることができずに迂回している私なんです」、なんていうことが書いてあると、その子は恥ずかしくて、みんなから軽蔑されると思って読むのだけれども、実際はまったく逆の反応が返ってくるのです。
 聞いてくれる子の中には、それに共感して泣き出す子も出てきます。どういうふうに言うかというと、「私たちの前で話してくれてありがとう」という反応が返ってきます。本人は逃げたいと思っているのです。でも聞かせてもらった子たちは、「私たちのことを信じて、いままで誰にも言っていなかったそんな大切なことを伝えてくれて、本当にうれしい」と。そういうことを言うわけです。
そのことによってその子自身も、いわゆる「カタルシス」といいますが、いままでのモヤモヤをいったん下ろして、人前で語ることによって、そのときのことを済ませることができる。そういうことが実は人間の世界のなかで起きてくるのです。
 この場合では、人前で自ら語るということですが、私たちが本当に自分自身を受け入れていくためには、隠している部分を人前で語るということと、もうひとつは、自分自身が気付いていない世界を指摘されて、それを聞き入れる、受容するという、こういう中で私たちは成長していくということであるようです。
 ただし私たちにとって、人の話を聞くということは、途中で相手の評価に変わったりするということがよくあります。「あなたはいい人です」と言いたくなるわけで、さらに「それはこうした方がいいのでは」と、いらないおせっかいまでしてしまい、なかなか聞くということは難しいのです。

相手を理解するということ-相談の五つの態度-
 私は臨床心理士として、聞くことをある意味で仕事としていますけれども、聞くということはいったいどういうことなのか。クライアントさんを受け入れるというのはどういうことなのか。
 簡単な実験をしてみます。例えば私ぐらいの世代でしたら、子どもさんがいま高校生とか、大学に入ったころです。では高校生としましょう。高校の2年生の自分の娘が、ある日学校から帰ってきて、「お母さん、学校を辞めたい」と言いました。その、子どもの学校を辞めたいという言葉を聞いて、みなさんはどういうふうに反応されますか。
 ある学者が調べて、人間がそういう相談を受けたときに、反応していくタイプに五通りぐらいのパターンがあると言っています。
 五回のうち、一つだけ選んでください。一番目、学校を辞めたいと言いました。「どうして」と聞く人。二番目の人は、「困ったね」と言う人。三番目の人、「何か不満でもあるの」と聞く人。四番目の人は、「そんなに思いつめないで」と言う人。五番目の人、「そう辞めたいの」と言う人。この五つです。
 「どうして」。「困ったね」。「何か不満でも」。「そんなに思いつめないで」。「辞めたいの」。この五つです。一度だけ手を挙げてみましょうか。「学校を辞めたい」と子どもが言ったら、「どうして」と聞く人は、圧倒的ですね。全体の八割方ですね。二つ目「困ったね」と言う人は、お二人いました。三番目「何か不満でも」と言う人は、お二人。四番目の「そんなに思い詰めないで」と言う人は三人。五番目は「そう辞めたいの」と言う人、これが二番目に多いですね。ありがとうございます。
 カウンセラーが取る態度というのは、実は五番目なのです。どういうことかというと、相手の話を本当に聞き入れたら、評価ができないのです、相手に対して。
 相手が困っているのか、不満があるのかわからないのです。「学校を辞めたい」と言ったら、私たちは、あれ、ちょっとやばいというモードに入って、これは何とかと思うのですけれども、ひょっとしたら、「学校を辞めてアメリカの学校に留学したい」ということを言うかもしれないわけです。
 もちろん、これは話している子の全体の雰囲気がありますから、言葉だけでは解釈できないのですが、全体で見ても、カウンセラー自身が、「困ったね」とか、「何か不満でも」とか、「そんなに思いつめないで」と言うことはまずないのです。
 もし私どもが、「そんなに思いつめないで」と言ったら、「じゃあ先生、何とかしてください」と、こう来るわけです。「学校に来て、うちの担任に言ってください。この担任は私をいじめているんです」といって、カウンセラーがカウンセリングルームから学校の先生のところへ行ったら、もう負けです。絶対に問題は解決しない。大きくなるだけです。
 一番目のタイプのことを難しく言うと、調査・診断型態度というのです。お医者さんの態度です。なぜこれはこうなったのかという原因究明型。原因究明しているときには、本人の情感というのは置き去りにされています。
 二番目の「困ったね」というのは、その子の行動を評価する態度なのです。評価型の態度と言われます。三番目の「何か不満でも」は、不満があるのかどうかわからないのです、この人は。ひょっとしたらもっと発展的に、アメリカの学校で学ぼうとしているかもしれない。だから、「何か不満でも」というのは、私たちの価値のなかで、この問題をひとつ解釈している。子どもたちは解釈されるのを一番嫌いませんか。あなたはここが悪いんだと言われたら、子どもたち自身は非常に反発します。
 四番目の「そう思い詰めずに」。これは私が支えになってあげるから、もうそんなに考えるのはやめなさいという発想でしょう。支えきれるうちはいいのです。でも本当にこの子が学校を辞めたくなって、「誰も私の苦しさをわかってくれない」といって、腕を切ってみんなに示す。これほど辛いんだと。リスト(手首)をカットする、自分自身を切り刻みたいという、自分の生まれてきたことを切り刻みたいということの象徴的な表現としてあらわれてくることがよくあります。そういうことまでして子どもたちは訴えてきます。そのときに私たちは受け入れきれるのか。支持できるうちはいいけれども、支えきれなくなったときには必ず共倒れになってしまう。これでは人間は育たないのです。
 カウンセラー自身は卑怯なようだけれども、とにかくいまこの子がここにいることを受け入れ、この子の言った言葉、その雰囲気をそのままに聞いていくしかないということです。
 「私は聞いたよ」ということを伝えるために、相手の言葉をそのままオウム返しするのです。「あっ、そう。学校を辞めたいの」と言うと、その子たちはちゃんと次のことを言ってくれます。こんなことを言うと会話が途絶えると思われる方がいるかもしれません。今日のワークショップでも来談者とカウンセラーになって、これをやってみたらよかったのですけれども。
 「学校を辞めたいの」。「そうなんです。このごろ学校に行っても、クラスのなかで座る場所がないんです」。「ああ、そう。学校に行っても、クラスのなかで座る場所がないのね」。「そうなんです。私の周りの子はお弁当の時間になったら、私の周りから離れていって、私一人でお弁当を食べるんです」。「ああ、そう。お弁当をクラスのなかで一人きりで食べているのね」・・・・。
 本当にこれをやるのです。これをやっていくと、子ども自身のなかで何が起きるのかというと、自己洞察が起きてくる。自分自身のことをどんどん振り返っていくのです。つまり、カウンセラー自身がその子どもさんの前にある、一つのホワイトボードもしくは黒板になって、そこにその子に見えるように全部書いてあげるわけです。そうすると子どもたちは自分の状態をそこに見て、そうなんだと、それはこういうことなんだというかたちで、どんどんこの子たち自身が解決の道を探していく。
 カウンセラーというのは、最後は「ポイッ」と捨てられるのが理想なのです。「私が君を治してあげたんだ」というカウンセラーがいたら、これはとんでもない錯誤であって、それは治療とは言いません。そのようにして、私たちは本当に聞いてもらったら、自分も変わるということが起きるようです。
 先ほど挙げた五つの態度のうちの、最初の四つまでを総合して言えば、これは基本的には、相手を今のままで変化させないでおこう、とどめておこう、慰留しようという態度だといえます。「学校を辞めるな」と、基本的には言いたいということなのです。
 五番目の態度は、この子は学校を辞めると言っているけれども、それはこの子にとってどういう意味があって、この子自身は今後どういうふうに、そのことを自分の力で乗り越えていってくれるだろうか。そのことを支援し、サポートしていく。それがカウンセラーの役目です。
 途中、私も心配で心配でたまらなくなることがあります。「今日、ああ言って帰ったけれども、本当に家でリストカットしていないだろうか」ということを考えて、不安になることがあります。
 でも、そのときに不思議なことで、私の気持ちがその子の中のどこかに引っ掛かっていると、みなさんもそうでしょう、子どもさん一人放っていっても、いつも外にいながらも、今頃ごはんを食べているかなという気持ちがあれば、その子たちにとんでもないことはなかなか起きない。親の気持ちがふっと離れたときに、熱いストーブの上のお湯をひっくり返してやけどをしているとか、よく聞く話ですけれども。
 私たちがそういうかたちで子どもたちのことを知っていくときには、しんどくなります。本当のことを聞いたら、気付いていない自分を指摘されたりしたら、私たちはしんどくなります。しんどくなるけれども、ある意味で、そのことから私たち自身の成長が始まるのです。
 「八十、九十になったから、わしらに成長は関係ない」といったら大間違いです。「七十歳になったら、いつお迎えが来てもいいわ」とか。自殺率の話をすると非常に現実的なのですが、一昨年、三万四千人もの自殺者が出たのです。三万四千人の自殺者を年齢別の比率でみると、どの年齢が一番多いかご存じですか。一時期は四十歳代後半の企業戦士とか、五十歳代のリストラ世代だと言われたのですが、一昨年から自殺率のピークは、六十一歳以上の高齢者なのです。
 年寄りになって、自分を放棄してしまうのです。若い子が放棄するのではないのです。高齢者のなかにそういう問題が起きているのです。その高齢者の方々が若い子に対して、「いのちを大切にしなさい」と言えるでしょうか。高齢者自身が成長を放棄しているのです。こころの成長というのは最後まであります。
 私はいつも言うのですけれども、自分の一生を考えたときに、老人には何の仕事もできないとか、そういうことでは決してなくて、老人には一番最後に一番大きな仕事があるのです。それは何かというと、死に方のモデルになるということです、子どもたちに対して。
 自分の一生をきちんと最後まで生ききって、そうして見事に往生浄土、お浄土に行かせていただくということを、あっぱれな最期を、子どもたちにきちんと見せれば、「おまえたちも生きているあいだは、一生自分のいのちを生きて、最期にはもとのいのちの世界に自分のいのちを返していきなさい」。そういうメッセージを自分の最期に送れるのです。そういう意味で、自分のご臨終の姿を近親者に絶対見せてください。病院の中でチューブまみれになって死んではいけません。
 本当に相手を理解するというのは、なかなか困難であります。理解をしていけば、相手の話を聞いていけば、私がしんどくなります。でもそのしんどさというものを私たち自身が考えていく。そのことを抜きにしては、親も子も成長はないということであります。それがうまくかみ合うと子どもたちは、本当に生きていてよかったという世界を発見してくれるのです。

人間になるということ
 今日は、「共にといえる人生講座」ということですが、共にといえる人生のために、親子も共に生きる。夫婦も共に生きる。家族全体も共に生きる。ですけれども、これを男と女が共に生きるということに合わせて、ちょっとだけ噛み砕いて考えてみると、そこにはこういう意味があります
 男女が共にといえる人生のためには、男女双方が自己一致的な異性観、つまり私にとって男性はこういう男性であれば、また女性はこういう女性であればということを、相手の声に耳を傾けて十分に聞き分け、そしてその人と本当に一致していけるような男女観というものを、やはり自分自身のなかで気付いていかないといけない。
 先ほどのWAIテストのなかでも出てきたと思うのですが、アイデアルセルフ、つまり頭の中だけで考えているような女性像というものは、もう必要ないと思います。相手に直接聞いてみて、あなたはいったい何を考えているのか、おまえはいったい何を考えているのかという、男女の仲での相手に聞いていくのです。
 聞くということは理解するということです。聞かなければわからない。だから聞いていく。聞くことなしには、実は人間にはなれないのです。どういう意味かというと、みなさんは人間として生まれてこられましたが、本来人間として生まれてきた人は一人もいないのです、このなかには。男か女か、人間の半分としてしか、私たちはこの世の中に生まれてこないのです。
 みなさんが歳ごろになって異性に関心がうまれてくるというのは、異性を取り込むことによって、男女を越えた一つの人間になっていくことの象徴的儀礼であるといえます。これを西洋の人たちは両性具有というような言い方をしますけれども、異性に関心が起きてくるというのは、男だったら男として、人間の半面の人生しか知らないのです。それを、女性の生き方というものを統合することなしには、私たち自身が統合された人間にはなれないということなのです。
 人間になるため、すなわち人間を成就させるためには、何らかの意味で異性を受け入れていく。異性を尊重していく。相互尊重なしには、私たちの人間成就、人間の成熟ということは起きないということであります。もし自分が女性を蔑視していったら、あなた自身が人間としては半端な存在でしかないということなのです。人間になれない。それが人間としての第一段階。
 西洋の心理学なんかはここを起点にして、精神分析学を大成したフロイトという人は、人間の成長のゴールを性器期というふうに彼は位置付けました。最初、口唇期から始まって、次に男根期なんていう言葉を使っているのです。女の子や男の子が「おちんちん」に関心の出る時期。そのあといろいろと発達段階を遂げていって、人間の成熟のゴールを、フロイトは性器期だと考えました。すなわち、種として子どもを産み、育てることのできる段階をフロイトは、人間の成熟というふうに考えました。種の成熟ということは、いま申しますような、一つの男と女が一致して、一体になることによって初めて次の生命を生み出せるという、そのところを人間としての第一段階目の成就と考えています。
 ところが女性の場合には特に更年期というのがあります。更年期の治療法はまだ確立されていないのです。なぜならば、今までは六十歳、七十歳、八十歳まで人間の大半が生き延びるなどという時代がなかったからです。近年はがん治療であるとか、脳障害の治療のほうに医療がどんどん進歩しましたけれども、更年期障害の方はずっと後回しにされていて、いまだに更年期治療、更年期の原因究明というのはされていません。それほど置き去りにされてきました。長寿高齢化社会を迎えた現代、更年期の問題もものすごく大きな問題になっています。
 その更年期を過ぎて、人生の後半を私たちが迎えたとき、私たちは男の役割、女の役割、父や母の役割、妻や夫の役割というのも、もう必要としません。そのときに何が起きるか。人間そのものの問題がそこで起きてまいります。「何のために私は生まれてきたのか」。「何のために生きてきたのか」。「これからどうやって残りの人生を生きていくのか」という、これは男、女の問題を越えた問題としてあります。
 そのなかで、うつ自殺による人間の放棄という問題が、大きな社会現象として起きています。交通事故で死なれる方が、昨年一年間で七千三百人です。走る凶器と言われた自動車事故の死者が。それに引き換えて、うつによって自死される方が三万四千人の時代です。自殺者が日本人の平均寿命を引き下げているのです。こんな異常事態がいま起きているということを、ひとつ念頭に置いていただきたいと思います。

経験に開かれる
 話を元に戻しますけれども、私たち自身が本当に相手の声に耳を傾けていくというのはいったいどういうことなのか。本当に聞けるかということを考えてまいりますと、ちょっと変なことを言いますが、日本の社会というのは、ものすごくまじめ人間を大事にする社会ということが言えます。
 みなさんも子どもたちに、「ちょっとまじめにしなさい」とか、「まじめに生きろ」とか、「あの人はまじめな人だ」とか。まじめイコール尊敬というような概念があるのですが、このまじめのなかで起きていることはいったい何かということを考えてみてほしいのです。
 みなさんもご承知の、文化庁長官の河合隼雄という方がいらっしゃいます。私の恩師の一人でもありますけれども、河合隼雄先生がある本のなかで、「バカも休み休み言え」を裏返して「まじめも休み休み言え」とおっしゃっているのです。これはどういう意味かというと、そこをちょっと読んでみます。
 「まじめな人は、自分の限定した世界のなかでは絶対にまじめなので、たしかにそれ以上のことを考える必要もないし、反省する必要もない。まじめな人の無反省さは鈍感や傲慢にさえ通じるところがある。自分の限定している世界を開いてほかと通じること、自分の思いがけない世界が存在するのを認めること、これが怖くて仕方がないので、笑いのない世界に閉じこもる。笑いというものは常に開くことに通じるものである」、と。
 まじめであることそれ自体は、いいことです。しかしまじめな人の落とし穴は何かというと、なるほどあの人はすごい、ご無理ごもっともだと思うのだけれども、一点だけ指摘すれば、付き合っていて面白くないのです。
 結局まじめな人というのは、自分のなかのある一つの役割、自分の世界を限定してしまって、この中ではちゃんとシステムができあがっているのです。だからこの仕事はこうして、こうして、いつまでにやり遂げて、また家のなかでは、子どもたちを毎日七時までにはお風呂に入れて、ごはんを食べさせてというふうな、きちっとした秩序の中で生きていっているから破綻しないのです。
 破綻しないけれども、その代わり、新しく横から入ってきたさまざまなものに関しては、「それは私の生き方と違います」ということで、聞かない、受け入れないのです。この人は、限定された世界で生きていけるあいだはいいでしょう。ところが突発事態が起きたときに、秩序の完結したこのまじめな人たちの世界というのは、ときとして破綻を迎えます。
 うつを発症される人たちには、共通の病前性格というのがあります。簡単にいうと、まじめな方はうつを発症しやすいのです。本当にうつの方は真剣に考えてしまうのです。端的な言葉でその病前性格のことを言えば、「秩序愛」ということができます。一つの秩序に対する愛着があります。その秩序愛が破綻したとき、この人たちは自分を責めるのです。非常に粘着気質、執着気質があって、「どうして僕はこんなことになってしまったんだろう。僕みたいな人間がこの世の中にいるから悪いんだ」というような、非常に感傷的なモード、メランコリックな気分になって、自分自身を傷つけていく。そういうところにどんどん自責の念を持つということです。
 決まった秩序の内で私たちが生きていくとき、それは結局、殻に閉じこもっている状態であって、外に開かれていない。そういう世界を私たちが生きているときには、非常に生きにくいということが、ときとして起きてまいります。
 私たち自身が、自分の秩序の殻の世界のなかに閉じこもるのではなくて、それを変革するには、経験に開かれることが大切であると、思想家、哲学者の森有正という人が言っています。
 森有正はそれを説明するにあたって、簡単に「日本には裸の自然がない」というふうに言っています。変な言葉です。この辺には自然がいっぱいあります。今日も飛行機できましたが山だらけです。きれいに冠雪していました。自然の真っ只中なのだけれども、そのことを森有正はこう言っているのです。
 「日本にある自然はもう全部、性格と役割、内的性格が決まっている。富士山、江ノ島、三保の松原、九十九里浜、あるいは日本アルプスの槍ヶ岳、白馬、常念、乗鞍、それからどこどこの何々という山、何々という川、何々の滝、つまり日本の自然というのは全部が名所の集まりです。みんな名所を見に行くのであって、自然なんか見に行きはしないのです。二見浦に太陽が出るところが絵に描かれている。みんなが二見浦の日の出を見にいくのは、そこでその絵を見ようと思って行くのです。
 富士山だったら、山部赤人が『富士の高嶺に雪は降りける』とうたったとき以来の富士山なのです。日本人はみんな知り抜いている。山部赤人がうたったような、あるいは葛飾北斎が描いたようなかたちをした山として、日本人みんなのなかに入っている。一万二千尺の高さの未知の自然としてあるわけではない」と言っているのです。
 つまり、私たちは自分の生の目で、その大自然の前に立ったことを自分自身の感覚で、自分の経験そのもので、その場に立たないというのです。いつかどこかで誰かに与えられた情報、そのことを頼りにして名所見物に行く。
 山部赤人がここがきれいだよ。葛飾北斎がここはすごいよと言った、そのことを見に行くのであって、そのことによってどんどん自分たちの経験を閉ざしていく。そういうことが、私たち自身の日常生活のなかでもいっぱい起きてはいないでしょうか。
 すなわち経験に閉ざされる。自分の眼でものを見、そこでおっしゃっている方の声に真摯に耳を傾けるということなしに、あそこはあれ、これはこうというふうな、一つの前提によって私たちは生きていないか。それを森有正は、経験の過去化、固定化、非独立性というふうに指摘しています。
 経験に私たちが本当に開かれていくためには、赤茶けた地肌を見せている富士山も富士山なのです。その前に立って、そのものをそのまま私たちが見聞きし、見取っていくということなしには、私たち自身のせっかく持って生まれた、生身のものを見たり、聞いたり、判断したりできるその感覚を、どんどん殻をかぶせて寝かせてしまう。こういう経験に開かれるという生き方は、同時にこれは親鸞聖人がおっしゃった、「自然法爾」という世界と本当に一致していまいります。
 親鸞聖人は、私たちの自然(じねん)の世界のことを、『末燈鈔』の第五章のなかで、自然(じねん)というのは何かというと、「行者のよからんともあしからんとも思わぬを、自然(じねん)とは申すぞ」とおっしゃるのです。最初からこれはいいとか、悪いとか、そんな人間の手あかの付いたものは自然(じねん)とは言わない。自然(じねん)とはそのままなのだ。そのままの世界を私たちがまず見聞きし、知られるかという、そこのところに立たないと、私たちは信心を私有化してしまうということをおっしゃる。
信心はあくまで私有化を許しません。もっと言うと、信心に個性はないのです。
 親鸞聖人は、「わが信心においては」ということをおっしゃいますけれども、その信心は、あくまで普遍的な信心そのものをおっしゃっているだけのことであって、親鸞聖人という個体を通せば、その普遍のいのちを個性的に生きるということを、たまたま「親鸞一人におきては」とおっしゃっただけのことであって、そこを一貫しているものは、本当に万人に開かれている自然(じねん)観なのです。
 森有正は「経験」という言葉を、彼独自の観点から「私を取り巻くこの現実そのもの」と定義付けています。この経験すなわち自然に本当に対峙していく、そのことなしには、私たち自身の生涯というのは全うしないということを、期せずして両者が指摘しておられるのです。
 自然(じねん)に触れるということは自然(じねん)に聞くということであります。どこまで私たちはそれを聞けるかということなのです。

秩序愛
 私は臨床心理士として、クライエントと呼ばれる来談者の方との間で、一週間に一度だけ毎週時間を決めて、だいたい50分から1時間のカウンセリングを継続して行っています。簡単な症例を一つだけ、かいつまんで申しますと、特に「うつ」のなかでも「うつ病」というのと、「抑うつ状態」というものとがあります。
 うつ病の場合は投薬治療が非常に有効だと言われています。うつ病というのは体内分泌が変わってしまって、体内時計が狂うという言い方をするのです。つまり私たちの体内分泌には、朝起きたときに分泌するホルモン物質とか、夕方仕事が終わったときに分泌する癒しの物質とか、そういったものがあるのですけれども、その分泌時間が違ってしまうのです。
 みなさんが時差の多い国に行って、時差ぼけで帰ってこられたときの感覚を思われたらよろしいです。朝起きたときから気分が夜なのです。起きたときから暗いわけです。目が死んだようになってしまうというのが、うつ病の特徴です。これも原因はまだ完全には判明していません。そういう原因不明の病気のことを精神疾患の世界では、内因性というような言い方をします。
 抑うつ状態というのは、同じうつのなかでも神経症圏のノイローゼ状態のことで、抑うつ状態の治療に関しては、カウンセリングが非常に有効だと言われています。うつ病とよく症状が似ていますけれども、早朝覚醒がないなどの特徴があります。
不眠の症状をお持ちの方自身は、夜が怖いというか、すべてが死に絶える時間が怖いというか、死に対するひとつの解決がもてない世界のなかにおられます。子どもたちが夜を怖がるというのは、夜というものが今日の一日がいっぺん死に絶える時刻であるからであります。
 夜が怖い、例えば電気を消して寝られないというのは、パニック障害の方たちに共通の症状です。暗くなったらいつあの発作が訪れるかわからない。死んでしまうかもしれない。死んだらどうなるのか。死ぬなんて考えたくもない。死んだら無だ、虚無だ、という。死に対する答えのなさの中から、そういう疾病に落ち込んでいかれる。何が不安なのか、何が恐怖なのか。死ぬことが恐怖だということが、究極の世界では言えます。それがさまざまな症状としてあらわれてきます。死に対する解決が見つからないから、自殺をするというのです。これは死を受け入れたことではなくて、死を自分から切り離すことが自殺に繋がっていくのです。最後は自己放棄です。ですからパニック障害などの治療に際しては、ある意味では哲学的なテーマも含みながらやっていかなくてはならない。
 治療者自身もその答えがわからずに、患者が患者を診ているようなケースはいっぱいあるのです。患者の重みがずしんと来て毎日悩むとか、仕事に行こうと思ったら微熱が出るとか、そういう症状を抱えているセラピストがいっぱいいます。自分の身体をズタズタにしながらケースにあたっている。それほど重い症例に私たちは直面しております。
 抑うつ状態に落ち込まれたあるIT関連の企業戦士の方がいました。それまで日本のITの先駆けとしてバリバリとやっておられたのですけれども、あるとき社内の人間関係が崩れる、すなわち秩序が崩れてしまったわけです。そのときに非常に重い抑うつ状態になって、仕事もできない。女性社員からも、あなたは仕事ができないといって軽蔑される。配属を変えられるのですけれども、そこではまったく新しい仕事だからよけいにできない。とうとう最後は、会社側の周到なステップを踏まされて、早期退職に追い込まれまして、それからわれわれのところに見えました。
 毎週一回、五十分、一対一でお話を聞くわけです。そのために料金をちょうだいする。まったく非日常の時間を、お金で買っていただくという世界です。
 日本の文化のなかに、相談に金を出すということはほとんどありません。寺院の住職などはずっとそれをやってこられたのですけれども、ところがいまや、毎週一回八千円のお金をお支払いになっても、百回以上面接しているケースがあります。まだこんなのは中盤ぐらいです。十年がかりでやっている方もいらっしゃいます。お金にしてみたらすごいことなのですけれども、それでもやはり、そこに来て自分のことを振り返らないと次に行けない。そういう世界であります。
 カウンセリングと聞法の姿勢は一緒なのか、と聞かれたことがあります。私自身のなかでは一致しているつもりです。しかし私は、カウンセリングの現場では、その人に教えを伝えるとか、あるいは念仏の話を出すとかということは一切しません。それをやってしまったら、浄土真宗という実に広大な世界ではあっても、独自の言葉を持っている宗教の世界に一方的に患者さんを色付けしてしまうことになります。だから私は、真宗カウンセリングとか、仏教カウンセリングという言葉で、外向きには自分のことを出すことはありません。まったくニュートラルな、ただのカウンセリングクリニックのなかの一部で仕事をしているという状況です。
 だからどんな方が来られるかわかりません。逆に言うと、どんな方にでもお会いしていきたいというスタンスで今やっています。仏教という名前を付けただけでも、クライエントさんを選別することになると思うのです。これでは本当の意味の、心理療法の間口を自ら狭めていくことになりかねないと思います。
 そういうふうにして、企業のなかで重い抑うつ状態になられた方なのですが、その方の問題は、実は秩序愛の破壊ということなのです。
その方は男性で、若いときから園芸がお好きで、自分の家にも少し畑があるので、そこでいまの時期だと葉牡丹を起こして、自分の親戚などにその葉牡丹の飾り付けをする。そういうことを日課にしていらした方です。その方がその趣味の園芸のことを、治療前と治療後に来ておっしゃったことが非常に印象的でした。うつのひどいときには、「会社勤めをしているときには園芸をしていないと落ち着きませんでした。自分の日課のようにして、家に帰ったら土に触るということをしないと、自分自身が非常に不安でした」とおっしゃっています。すなわち生活の秩序の中に、趣味も入ってしまっているのです。極端に言ったら、趣味も仕事になってしまっているわけです。
 ところが治療の進んだ今は、「本当にこころから園芸が楽しいです」ということをおっしゃる。そういうかたちで、秩序愛のことをちょっとご理解いただけるかなと思います。

無縁の大悲
 実はその秩序愛のことが、『法句経(ダンマパダ)』というお経の中に触れられています。『法句経』は、仏陀自身が語られたことをそのまま書き留めたと言われています。仏教の経典の中でも一番古いものは、詩とか歌のかたちをとっています。歌のかたちをとると、とても覚えやすいのです。
余談ですが、真宗宗歌というのはすごいと思います。大正12年からいままで80年間、真宗教団全体で唄い継がれているのです。今日もみなさん、大きい声で唄われていましたけれども、だから、みんながこころを一つにして唱和できる真宗宗歌というのは、ある意味でものすごく大きなグランドデサインというか、ユニバーサルアイデアということが言えます。いつでもどこでも誰でも唱和できる。
 『ダンマパダ』のようにして、お釈迦さまが書かれたことを歌にして覚えていく、その歌になった『詩偈集』というのが、経典のなかではもっとも古層に属すると言われています。そういう意味で、『ダンマパダ』のなかには、お釈迦さまの思想そのものが非常に直接的に伝わっているということが言えるのです。
この『ダンマパダ』の中に、「愛について」という章が設けられています。仏教の世界では、愛というものは、愛着とか、愛憎とか、そういう概念でとらえていって、キリスト教で言うところのラブの世界、愛の世界とは一線を画しています。むしろ仏教の世界は、愛自身から私たちが離脱するということを教えていくということがあります。それはなぜかというと、人間が人間に対して向ける愛というのは、愛とは名のるものの、究極のところは、秩序愛であるとか、執着と言われるようなものに堕してしまうからです。
 『ダンマパダ』のなかに、五つの愛が説かれています。『ダンマパダ』の第二十二偈に出てくるのですが、愛というのは、ひとつはピア(PIYA)という愛がある。これは血縁的愛情である。親が子にかける思い、それをパーリ語でピアと言います。肉親の愛。
それから肉親以外の人々に対する愛。それはすなわち友情ということになります。そういう友情のことを、ぺーマ(PEMA/親愛)というふうな言葉で仏陀は語っています。三つ目にラティ(RATI/欲楽)という言葉があって、これは特定の異性に対して向けられた愛のことを言います。ですから、恋愛というふうに訳することができます。四つ目のカーマ(KAMA)。愛欲というふうに訳しますけれども、性的な愛です。インドには『カーマ・スートラ』という「性典」というものもあります。いわゆる性を通して快楽の世界に行くという、そういうものを説いた経典です。最後に、愛の究極体として、仏陀は渇愛というものを挙げています。タンハー(TANHA)といいます。渇愛の「渇」は渇きという言葉です。長い砂漠を旅してきた人が、水がなくて一週間も旅を続けている。最後にオアシスがあった。ところが、そのオアシスの周りには番人がいて、そこに入れない。
 「おまえはこのオアシスの水を飲む代わりに一千万円をやるからどこかに行け」と言われたとしても、その旅人はお金を捨ててでもそのオアシスの水の中に飛び込む方をとるでしょう。焼けた鉄板の上に水を一滴垂らしたら、じゅっと、一瞬にして蒸発してしまうような、そういう一つのものに対する執着のことを、タンハーと言います。
 先ほど申しました秩序愛も、それが一つの組織とか制度に対する愛着だと考えれば、このなかに含まれると思います。つまり自分自身が築き上げたシステムに対する愛着です。
中村元という仏教学者は、『仏教語大辞典』の「愛」の項目の説明として、次のように言っています。
 「これらは別のものではなくて、本来の様相である盲執(渇愛)が種々に形を現わすようになると解すべきである。この苦悩の中から、呻きとしての『悲』(karunaあわれみ)が生まれてくる。カルナーの原意は呻き・嘆きである。自己の呻きを知る者は、他人の苦悩にも共感できるし、苦悩するすべての者への親近感・友情をもつようになる。これが『慈』(maitri)である。友(mitra)ということばからつくられた、このマイトリーという語は、最も深い友情という意味を持っている。この慈悲が愛に代わってすすめられ、慈悲の究極として、無縁の大悲、つまりわたしが、だれに、どれだけのことを、という三つの条件を全く意識しないで、他者をしあわせにする無条件の大きな愛が説かれるようになった。」
 これは、それまでの特定の修行者たちだけが救われるとする小乗仏教の教えではなくて、あらゆる人々が、すなわち一切衆生が、一人残らずのみんな救われるという、そういう大きな救済の乗りもの、つまり大乗の教えの基本です。われわれの浄土真宗も全部大乗仏教の一角なのです。日本にある仏教はすべて大乗仏教です。小乗仏教は日本にはありません。
 小乗仏教はいま、タイとか、スリランカとか、ミャンマーとかで、黄色い衣を着たお坊さんたちが托鉢生活を送っている、あの形態が小乗仏教です。でも彼らは自分のことを小乗仏教なんて言いません。大に比べて自分たちのほうが小さいなんて、決して思っていない。彼らは自分たちのことをテーラワーダ仏教、長老派仏教、上座部仏教という名前で呼んでいます。仏陀の側近の上座の人々によって伝えられた教えだという自負を持って、彼らは上座部仏教と称しています。
 タイやスリランカの在家の人々は、完全に自分たちが悟りを開くということを放棄しています。彼らはひたすら上座部仏教の教団に対して寄進をし、懇志を捧げることによって、現世の平安、現世の徳を求めるということが、その目標になっています。
 いわゆる地上天国を求めるために、彼らは一所懸命お寺に対して寄進をする。そういう意味では非常にいい関係ができているのです。現在は男性の出家者しかありません。もともとは女性の教団もあったのですけれども、制約が厳しすぎて、女性は、仏陀が亡くなってから二百年近く経ったときに消滅しました。誰もやる人がない。
 ですからお母さんたちは自分に男の子が生まれたら、たとえ一週間でもこの子をお坊さんにして、出家させて、その徳で自分たちがこの世のなかで幸せに生きていけるようにという、そういう仏教の形態を、南の国では主としてとっています。
 こういう仏教の形態のことを上座部仏教、あるいは長老派仏教と言っていますが、北の方に育ってきたわれわれの仏教は、そうではないのです。全部が救われるというのです。救われるのだけれども、われわれがやむにやまれぬ形でその救済を求めるときには、本当に呻かざるをえない状態にあるというのです。いくら自分の子どもに対して、どこまでもこの子を救いとっていきたいと願っても、親が子に掛けるプライベートな慈悲は完結しないし一貫しない、と。
 『歎異抄』の第四章に記されているように、「いかに、いとおし不便とおもうとも」この子を救いとどけることができない。自分の子どもはどうしても病気にしてやりたくないと思っていても、われわれの力でそれを阻止することができないという、人間の自力性の限界というものを、親鸞聖人はちゃんとおっしゃっているのです。ではそのときに、私たちはどうやって救われるのかということです。
 私たち自身がにっちもさっちもいかずに呻かざるをえないとき、その呻きそのものが、この世に生まれてきたことの実相であり、そういう困難、苦難を本来抱えているのが凡夫なのである、と。自分自身の凡夫性をあからさまに見よ、というのが、ほとけの指し示しなのである、と。自分で悟れる人ならば、ほとけが出現する必要はないというのです。呻くしかない自分、自力の世界ではどうしても生きていけない自分であるからこそ、ほとけの慈悲にすがり付くということが起きるのです。
 すがり付いたときには、それは私がすがり付いたのではなくて、もともとあるほとけの世界に目が開かれただけです。本来無縁の大悲に取り巻かれている、と。無縁というのは無条件ということです。無条件の大慈悲です。無条件に私たちの存在というのは、基本的に救われているという世界です。大乗仏教の名のもとに、こう示されているのです。中村先生の言葉で言えば、最後に出てくる「無条件の大きな愛」と言われるものこそがほとけの願いです。すなわち弥陀の本願ということで読み取ることができます。
 私たち自身が凡夫の自覚によって、自覚というよりも自覚せざるをえないというか、自身これ悪魔なりという、その呻きに立たざるをえない私たち、絶体絶命の、生きることも死ぬことも止まることもできないという、その三定死の状況のなかに立たされたときに忽然と見えてくる世界は、「にもかかわらず、おまえはいま呼吸をし、そこにあるではないか」という世界です。
 何ができるとか、何ができたとかという世界ではなくて、おまえの存在自身がそこにあるではないかという、そのことに私たちの目が開かれたときに、自分自身の生きていることの意味や価値というものが、本当に他者と共感せざるをえないものとして開かれてくる。それを「南無阿弥陀仏」という言葉で、われわれ浄土門に位置するものは伝えられ、教えられてきたわけであります。
 またこの世界というのは、本当に一切のものを救う。一切の衆生だから、一人も取りこぼさないのです。おまえはだめというのは一人もないということなのです。すべてが本来救われているという世界を、逆転的に私たちに示してくださったのが法蔵菩薩であり、その法蔵菩薩の願いというものを開かれたのが仏陀自身、釈迦牟尼仏陀であります。
 阿弥陀仏は、私たちのいのちの本体と言ってもいいものです。法蔵菩薩が本願を成就して阿弥陀仏になられた。そのことを私たちに示してくださったのがお釈迦さまという方であります。お釈迦さま自身もそういう意味では、その阿弥陀のいのちを生きて、八十年の生涯を全うされた方ということが言えるわけであります。

暁烏敏氏に聞く
 話を戻します、そういう点で、私どもは人の話を最初からなかなか聞けないのです。呻かざるをえないような状況というのは、心理学の世界で言えば「対象喪失」という言葉がありますが、私たちにとってもっとも大切なものをなくしたときです。
 昨日、私の教え子から喪中のはがきが届いておりました。見たら、まだ三十代半ばの子なのですけれども、夫がこの二月に亡くなりましたというのが来るわけです。見ているこっちも愕然とするわけです。
 自分がよかれと思っていくらやっても、本当に大切なものをなくさなければならないし、理不尽な挫折の場面に直面しなければならない。そしてなくなったことに対して、もはやいいわけも理由付けも何もできずに呻き続けるというような世界を持ったものにしてはじめて、「では、どうしたらいいのか」と、初めて教えを聞くこころになるというのです。ここに新たな世界が開けるという意味です。
 ただ教えを聞くといいながらも気を付けていただきたいのは、私の近親者やクライエントさんでもよくあるのですが、面接に来られる方というのは、やはり大切なものをなくされた方があります。仕事をなくした。すると周りの人が言うわけです、「あなた、ちょっとどこかおかしいかもしれないから、誰かに見てもらったらどうなの」、と。いったい誰に見てもらうのかというと、原因はあなたの家の方角が悪いから、そういう霊媒師なり、いわゆる迷信と言われるような世界にどんどんいざなわれていってしまうのです。いままでそんなことには絶対近づかないだろうと思っていたような人が、突然の事故で自分の子どもを亡くしたりすると、本当に動揺してしまって、「あそこにいい占い師さんがいるから、あの人に出会ったら、息子さんの声が聞こえるかも知れないよ」といわれて、本当に足を運んでしまうのです、こころが弱って自分自身に向き合えないと。
気が付いたら巨額の寄付をその教団に対してしているとか、それがあたかもいいことのように思って。それがいったん正気に返ってしまったら、自分はいままで何をしていたのかというところに落ち込んで、最後は首をくくってしまうというようなことも起きてしまうのです。
 暁烏敏という方が、「聞けないから聞く」ということについて、非常にたくさんの言葉を残してくださっています。
 暁烏敏という方は、いまからちょうど五十年ほど前、東本願寺が蓮如上人の四百五十回忌を勤めるときに宗務総長を務めていた方です。東本願寺は長いあいだ魔境だと言われていました。東本願寺というのは、周りの人間から湯水のごとく財産があると思われているから、周りからいっぱい要求してくる人がいて、暁烏敏が東本願寺の宗務総長に就任したときには、東本願寺の障子は破れるわ、借金の巣くつだったといいます。それだから暁烏敏が呼び出されたのですけれども、その借財をわずか三年足らずの宗務総長の在任のあいだに、戦後の混乱した世相の中で、いまの「相続講」を起こして、東本願寺の「同朋生活運動」というものを創始して、東本願寺を財政的に建て直しました。
 当時もう疲労で視力をなくされていて、「盲目の念仏総長」と言われました。その盲目の念仏総長が、仏教というのは、生活苦がなくなって聞くのではない。生活苦があるからこそ、生活苦のなかから私どもは仏教を聞かなければならない。苦を外してしまった宗教なんて何の意味もないと言うのです。苦しみのなかから、本当にどうするかという真剣なまなざしで、私どもがそれを聞いていくということから、仏教というのはわれわれにとって始まっていく。
 彼は「教学派」とか「歴史派」ではなくて、「生活派」と呼ばれました。生活のなかで仏教を聞いていくことこそが、仏の本意であると捉えた方だからです。
 暁烏敏先生に、「聞けないから聞く」ということの意味を少し聞いてみると、こんな言葉が出てきます。例えば、「自分の経験や思想に基づいてことをおこなおうとする者には力がない」。これは秩序愛に基づいておこなう者には力がないというのと同じ意味です。
「自分の考えを持って他を導こうとするときには、自分の考えに対する他の考えも認めねばならぬ。それに勝って行くには、両方の考えを入れる大きさが必要なのである。こうなると、迫力はこころの大きな広い人の上に備わるように思われる。迫力のある人の少ないというのは、信ずるところの厚い人の少ないということにもなり、こころの大きな人の少ないということにもなる」。
 「小さな自己に立てこもり、人を見れば敵と思い、排他的な考えを持って生活している者に迫力は決してない。人に対してこころの警戒をもうけねばならぬようなものに、人を服せしむるような力はない。迫力は鍾馗さまのようないかめしい顔の人にあるのではなくて、かえって地蔵さまのような優しい顔の人にあるようである。大きな声で怒鳴っておっても、決して人を服せしめる迫力があるわけではない」。
「自分ばかりしゃべりたてて、人の話を聞こうともしない性質の人がおる。こうすることによって、相手を退屈せしむることがある。人のいうことを熱心に聞く人には、人がよりたがるものである」。
こんな言葉もあります。「人の言葉を硬化して聞き取る癖の人がおる。生きた人が、生きたままに表現した言葉を聞いて、彼はその概念をつかみ、硬化せしめて死語を聞いておる。そして、この死語に彼自身を当てはめようとして、もがき泣いておる。かわいそうな性質の人だ」。
 「こういう人々がある、『どうせわれわれはおろか者だ』と。これは投げだしである、聞く気がないのである。かかる人たちはまだ自分のおろかさに気がつかないのだ。真におろか者と気がつけば、人の教えを聞く心になる」。
 この例を暁烏敏先生が挙げるときに、誰も風呂の湯加減をみるのに、五十度も六十度もある熱い熱いお湯のなかにいつまでも手をつけて、「熱い」と言っているやつはいないとおっしゃるのです。本当に熱かったら、「熱い!」といって瞬時に手を引き抜くと。私たちが本当に愚かだと気が付いたら、凡夫だと気が付いたら、この引き抜く力が出てくると。次の対策を考えなかったら、私たちは生きていけないではないか、ということを言うのです。
 それがけっこう念仏の世界にいても、いわゆるぬるま湯につかっているのです。「どうせ私は凡夫ですから」といって、自分を慰撫している自称念仏者がいかに多いことかという批判でもあります。
 次に出てくるのが、「菩薩は静かに聞くのです。十方衆生と呼びかけられる阿弥陀仏は万人の言い分を静かに聞く方である。聞いてばかりおるのは何も活動でないように見えるが、それが大活動なのである。どっちかというと話を聞かしてくれる人よりも、聞いてくれる人が欲しいものです」ということばです。
そして最後に一つ、「人を尊敬せずして、その人と交わりを続けておることは、自らを侮辱することである」と言われます。こういう言葉を暁烏敏先生は、聞くということに関して、本当に私たちに指針を投げかけていてくださるように思います。

聞法第一-聞くことは生きること-
 私たちの真宗の教えというのは、聞法を第一といたします。私の大学の真宗文化研究所というところで、真宗の伝統的な生活文化というのはいったい何なのかということを、ずいぶん研究してまいりました。
 いまや伝統というと、最近和風ブームであるとか、日本文化ブームで、本でも散乱するように出ていますが、結局伝統というものを考えたときに、過去の古いものをリニューアルさせるとか、そういうことではないのです。伝統という言葉は、辞書で引かれればわかるように、「伝えもたらされた一つの系統」のことで、最初の「伝」と最後の「統」が一緒になって、「伝統」です。
 伝統文化というのは、そういう意味では私たちのいのちと一緒で、現在まで一度も断絶せずにずっと伝えられてきて、その最先端にあっていまなお生命力を持って生きているもののことです。長い歴史や社会の背景を持つ、人間の営みの先端にある文化のことを伝統文化と呼ぶのです。
 私たち真宗人としての伝統文化というのはいったい何か。三つのことが言えます。まず第一には、「たゆまぬ聞法」ということです。教えを聞く。真宗に具体的な行があるとすれば、それは聞くことです。ただし、聞くと言っても仲間がいないと一人ではなかなか聞けません。「正定聚(正しく定まるともがら)」ということばがあるように、私たちは念仏のお仲間とともに念仏を唱えさせていただくという「同朋唱和」の伝統を持っています。これが二つ目です。そして三つ目には、ほとけは私たちのこころのなかにいるのですが、その内なるほとけを本当に感じようとするときに、われわれはそれをいったんとりだして、一つの本尊、名号というかたちにして対象化をし、そのご本尊をお内仏としてお飾りして、その前に手を合わせることによって、自分自身の来し方、行く末をちゃんと見直していくという、そのことが起きてまいります。つまり「内仏荘厳」です。この三つのことが、真宗人における伝統的な生活文化であるといえます。このような世界を大事にしていきたい。
 さてなぜ聞法なのかというと、聞法というのは生きることそのものであります。聞法抜きにして、私たちの生きていることの意味は鮮明になりません。「聞く」というけれども、究極的に何を聞くのか。もちろん相手の言い分を聞く、子どもの言い分を聞く、こころの声を聞くのですが、究極的に聞きとおしたときに何が聞こえてくるか。
念仏の世界においていえば、先ほどの法蔵菩薩は「一切の衆生がこころを一つにしてわが名を聞いて、至心に信楽して、そして阿弥陀さまの浄土に生まれたい、永遠の安楽の世界に私たちも帰りたいという思いを持たなければ、私は悟りを開かない」とおっしゃったのであります。その法蔵菩薩の願いはすでに成就したから、悟りを開いて阿弥陀仏になられたのであります。
『大無量寿経』の最後に、本願成就文というのがあります。本願は成就されているのです。私どもはその本願の名号を聞いたときに、すみやかに往生を得ることが確定しているのです。浄土とは永遠の安楽世界、二度と死の恐怖におびえることのない世界です。その世界に触れることによって、二度と迷いの世界に退転しない、そういうことが本願成就文に掲げてあるわけです。
 つまり聞法というのは、「聞其名号(その名号を聞く)」ということです。『教行信証』の親鸞聖人の注釈には、「聞というは、仏願の生起本末を聞いて、疑心あることなし」とあります。なぜ阿弥陀さまは仏になったのか。弥陀成仏というのはいったいどういうことなのか。名号というのは南無阿弥陀仏ということですけれども、「南無阿弥陀仏」というその念仏のいわれそのものを聞くことなしに、われわれは本当の人間にはなれないと言うことです。
 つまり阿弥陀さまというのは、私たち一人一人を生かしている無限のいのちのことです。永遠の過去、無限のかなたから、私たち一人一人を本当に生かそう生かそうとし、どこまでも生かしてやまない、そのいのちの本体を、阿弥陀という言葉で語っています。
 私たち自身が、阿弥陀さまのいのちをいま生きている。そのことを私たちはどこまでも聞いていく。だから「南無阿弥陀仏」と自分で唱えながら、自分で聞いていくのです。その「いのち」というのは無縁の大悲であります。一切私たちを差別しない。そういういのちであります。
 本日は本山女性室主催の「共にといえる人生講座」でありますけれども、われわれの教えの世界のなかで、男女平等というのはもう既に実現しているのです。阿弥陀さまのいのちを、男女問わずすべての生きとし生けるものが生きている。すべてのものが弥陀の本願によって既に救われている。ただそれに気付かないだけなのですけれども、その世界があるというところで、われわれの平等はもう完結しているわけです。
 だから人権とか、そういうレベルをはるかに越えて、それをぶっとおすぐらいの、ユニバーサルデザインとか、グランドアイデアとか、そんなものをはるかに越えた、もっとも基層の部分にある弥陀の本願において、われわれは本来平等である。
 本願とはまた、「根本願求」と言います。弥陀の根本的なわれわれに対する、生きよ、生きよとの願いかけそのものである。それを受けていないものは一人もいない。そういう点において、平等と言わずして何と言えるのかということであります。
 その世界を、たまたま女性室、あるいは男女の問題ということを考えるなかでは、男女平等においても、弥陀成仏のいわれを聞くことによってしか、本来の意味の平等という世界は実現しないということであります。ですからこれはもう、男女の問題、社会の問題、各年齢差別の問題、外国人との差別の問題、そういった問題も越えて起きるわけであります。
 最後に一つだけいただいたご質問に対して、コメントをさせていただきます。男もしくは女として生まれたままでは、半端な人間でしかないと私は申しましたが、恋愛感情は異性愛者だけではない、同性愛者はこの場合、社会のなかでどうなるのかというご質問です。
 最近ゲイの問題がわが国でも大きく取り上げられていますし、一方では性同一性障害の方もたくさんいらっしゃいます。女であって、女しか愛せないという方もおられるわけです。そのことは、心理学的に言えばいろいろあります。
 性同一性障害ですけれども、その人はある意味で、女であって女ではないわけで、女であって男であるということもあるわけなのです。あるいは発達の中途の段階で、発達障害によって止まってしまったということもあります。人間の成長過程では、同性愛の時期を通り越し、その後に異性愛に移っていくということがあります。そういう障害の問題を考えなければなりませんが、基本的に本当に人間になるということは、別々のものが一つに統合されていくということであり、その統合はただの統合ではなくて、そこから一つ生み出されるものが起きてくることです。
 男女が一緒になったら、子どもが生み出される。ところが結婚しても子どもに恵まれない方もあります。恵まれなかったとしても、それは夫婦のなかで子どもに変わる何ものかを生み出していく。あるいは女同士で愛しながらも、そのなかでその男性性を何らかのかたちで取り込んで、そのなかから一つのものを生み出していく。創造的な一つの力というものを伴わないと、人間成就ということは言えないわけであります。
 だから自己破壊ということは、どこまでいっても人間成就にはつながらない。クリエイティビティというものを伴わない人間成就、人間の統合ということはありえないということを申しておきたいと思います。
 あっちに行ったり、こっちに行ったりの話しで、また早口でまくし立てたようなことで、最後までお付き合いいただきまして、大変ありがとうございます。
 また本山の女性室がこの講座を開かれた一つの趣旨にかなったかどうか、はなはだ心許ない次第でございますが、どうかご了解いただければありがたいと思います。ご清聴ありがとうございました。(太田氏終了)



○司会 先生、どうもありがとうございました。続いて、このまま閉会式に移りたいと思います。
 これから閉会式を始めます。三条教区教化委員会企画委員長、佐々木亜人からご挨拶申しあげます。 



閉会あいさつ

 長時間にわたりまして、今回の研修会にご参加いただきまして、まことにありがとうございました。
 女性室が誕生して以来、大変意義のある活動を、これまで京都を中心に続けてこられたわけですが、各教区においても開催していくという趣旨で、数年前からいろいろな教区で活動を展開されております。
 このたび三条教区に声がかかりました。その趣旨を教区の教化委員会としてお聞きしましたところ、私どもも大切な課題であると受け止めまして、昨年来取り組んでまいりました。
 八回の準備会を開いきまして今日に至ったわけですが、多くの方々にご参加をいただきまして、第一回目としては大変意義深かったなと考えております。
太田先生には大変ありがとうございました。
 さて、三条教区教化委員会といたしましては、今後もこういう大切な教化事業を継続的に取り組んでいこうという前提で、この研修会の名前も「共にといえる人生講座」と位置付けました。継続的にぜひ取り組んでまいりたいと思います。
 そのためには、従来の教化費というものを少し見直しまして、ある程度自由に、しかも、より意義あるものに使っていけるように、予算組み替えをしてきていきたいと思っております。是非、みなさん方も声を出していただきまして、このような意義深い研修会を、一つでも二つでも各地区で取り組んでいただければと思います。
 いま教区から組に教化事業が段々と移行されてきております。教区の教化事業はそういう穴を埋めるような、こういったものを重点的に取り組んでいこうということになろうかと思います。
 そのためにも、今日も先生のお話がございましたが、聞法ということに尽きるわけでございます。真宗同朋会運動が四十年以上経過しまして、既に半世紀に入っておりますが、やはりこの真宗同朋会運動をしっかりと見直して、さらにどうすればいいのか、こういった問題を考えていかなければなりません。
 来る宗祖の七百五十回御遠忌を目前にして、私どもは自己の生き方とでもいいましょうか、自己を見つめる目とでもいいましょうか、そういうものをしっかりと磨いてまいりたいと考えております。
 私は三条教区の第十組でございますけれども、昨日、第一回目の親鸞聖人講座を組で開催いたしました。三十五名程の方が熱心に集まってくれまして、大変よかったなと思っております。御遠忌に向けて、しっかりと進めてまいりますと同時に、教区の教化事業も見直しながら進めてまいりたいと思います。
 継続的な取り組みとして「共にといえる人生講座」、是非みなさんの手で育てていただけるようにお願いをいたしまして、今日が非常によかったなと思う感想を述べまして、ごあいさつとさせていただきます。どうもありがとうございました。
2005年12月11日(日)開催



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