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共にといえる人生講座
聞き合うということ真宗の人間観人間を人間と見ること難し前半/後半

人間を人間と見ること難し 真城 義麿 師

【後半】
 それでは、もう少しお話をします。
 あらためて私たちは、共に生きるよりほかに生きるということはあり得ないんだということを思います。先ほども申しあげましたけれども、私たちは関係性のなかで生きている。関係性のなかで生きているということは一方でいうと、思いどおりにならない(不如意)ということですね。つまり、この世の中は、「私中心にはできていない」ということであります。あらゆるものが同時にそれぞれの意味を持って、それぞれの尊さを持って、存在意味を持って存在して、そのなかに私もいるということですから、私の思いどおりになるはずがない。
 だけど、ときには思いがけなく、すてきなことに出会ったりすることもある。そうなんですね。そんな中にいるんだということでありますから、先ほど少し申しあげましたけれども、私が気持ちよく生きていくためには、関係が気持ちよくないと、なかなかうまくいかない。そういうときに、男と女の問題のなかで、要はどちらかが我慢することで成り立つとか、どちらかが嫌な思いをしながら成り立つとか、そういうことだと、本当はどちらも気持ちよくないということですね。
 今、私とこの人との関係がどうなんだろうかということを、もう一度私たちは見直してみる必要があるということですね。そして今の関係性、あるいは組織の在り方、あるいは役割分担の決め方、いろんなことがある。それは何を実現しようとして、どこへ行きたいから私たちはそういう組み合わせを選んでおるのか、役割分担をしているんだろうというようなことを考えてみたい。どうなりたいから、今、男女はそういう関係にいるのだろうか。
 お寺で言えば、住職と呼ばれる人の役割があり、坊守と呼ばれる人の役割があって、それは今まで固定的に、もう疑うこともできないような、あたりまえのものとして私たちは思っていた。だけどもう一度、お寺に住職と坊守がいて、男と女がそれを役割分担をしておるということをしているが、それは何を実現するためのシステムなのかということですね。その実現したいことがはっきりすると、本当にそのシステムがふさわしいのかどうか。そういうことをもう一度問い直しをしてみるということが必要ではないか。
 そして先ほどもAKIRA(&脳性マヒブラザーズ)さんが、「私たちは常に生まれ続けているんだ。誕生し続けている」と歌ってくださいました。そのとおりなんだと思います。ですから私たちはいろんなシステムや役割の在り方も、どんどん新しく誕生させていくということができるし、するべきことはしなければならないのではないか、そんなことも思いますね。
 仏教や真宗の人間観というのは、私たちがよかれと思ってやることは、もがけばもがくほど罪を犯してしまうことなんですね。私たちの苦はどこから来るのか。現実は「不如意」、思いどおりにならない。だけど私たちは思いどおりにしたいのです。そのギャップのことを「苦」といいます。思いどおりにしたいけれど、思いどおりにならない現実を受け入れなければならないときには、私たちはそれを苦しみというふうに感じる。
 だから変な言い方をしますけれど、歳を取るのは苦しい。「老苦」だと言うけれども、老苦を解消するのは理屈では極めて簡単な話です。こころの底から歳を取りたいと思いさえすれば、一瞬一瞬、夢が実現していくんですから、苦ではなくなります。「毛が薄くなったらいいな」、「夜中に二回も三回もトイレへ行くようになったらいいな」と思っているうちに、そうなっていくと夢が実現するわけです。
 だけどそうはいかない。私たちは健康のまま、若く見える状態のまま長く生きたい。もう最高の矛盾ですね。歳を取らずに長生きだけしたいということです。そこには歳を取るということで言えば、歳を取ることには意味があるということをちゃんと見るということを、私たちはひょっとしたら忘れているのかもしれない。「思いどおりにならない現実が、私たちに何を気付かせてくれる」のか、そんなことがあるんではないかなと思いますね。
 先ほど少しお話しました、田舎のお年寄りたちといろんなことをやっているなかで、歳を取るということはどういうことなんだろうと、いろいろ考えさせられました。
 そんななかで一つ気が付いたことは、人間の知恵というのは二通りあるんだなということです。人間の知恵は二通りあって、一つは歳を取るにつれてすり減っていく知恵ですね。記憶力とか、新しいことに対応する知恵ですね。
 私は京都で以前勤めていたときには考えたこともなかったようなことを、先ほど言いました老病死、老病死のど真ん中にいると、気が付いたことがいっぱいあります。例えば、電化製品のリモコンです。こんなものは若い健常者ばかりが寄り集まってつくったに違いないと思いますね。ですからお年寄りの家では、テレビを消したつもりがエアコンが付いたりするわけですね。同じようなな形のものに、同じようにボタンが付いて。
 もう少し親切であれば、ナショナルであろうが、東芝であろうが、三洋電機であろうが、エアコンのリモコンは赤、テレビのリモコンは黒、ビデオはグレイ、そういうふうにはっきりしてくれると、誰が見ても間違うことが少ない。それぞれは、よかれと思ってやっているんでしょうけれどもね。
 田舎の一人暮らしのお年寄りの家なんていうのは、電化製品は最新型の一番いいやつがある。なぜかというと、例えば扇風機が壊れたとするでしょう。そうすると都会におる息子に電話をかけるわけです。「すまないが、ちょっと扇風機の調子が悪いんだが、新しいやつ一つ買って送ってくれんだろうか」。
 そうすると都会の息子は、母親だけを一人で、あの不便な寂しいところに置いて、自分は都会の生活を満喫しておる。母親は年金暮らしで寂しい。こういう痛みがありますから、上新電機かヤマダ電機か知りませんけれど行って、最新型の一番いいやつをぱっと送ってくるわけです。
 それが「小さな親切、大きなお世話」というやつです。昔の扇風機だったら迷うところは一つもない。0、1、2、3しかボタンはないんです。今はリモコンなんです。一所懸命コンセントに電源を差し込んでも、0、1、2、3でないですよ、今は。「微風」とかね、漢字で書いている。やっと動くかなと思っても、リモコンに電池が入っていないために回りません。いろんなことがあるわけですよ。
 そんなこと一つとったって、非常に不自由している人たちがいるということが見えない。見えにくいことになっている。今困っている人がいるということが、なかなか見えないのですね。そういう世の中にだんだんなってきていますね。
 僕は都会と田舎と行ったり来たりしますと、都市部の傲慢と言いますかね、そういうものがいろんな場面で感じられますね。都市というのは住む人を選ぶわけです。自動販売機でモノが買えない人が、なかなか都会では生きていきにくいんです。エレベーターに乗れない人ね、困るわけです。うちらの田舎の人が歳を取って都会へ引き取られていくけれども、エレベーターが怖いからと乗れない。そうすると、あと部屋でじっとしているしかないですね。あっという間にボケて亡くなっていくというようなことがある。けんかをして帰ってくる人もよくいます。野垂れ死にしてもいいから、ふるさとに戻りたいんですね。
 そういう困っている人たち、不自由な人たちを私たちが見る眼といいますか、感覚というか、そういうものをちゃんと持たないといけないし、それは逆もいっぱいあります。若い人が見えていない。年配の人から若い人がちゃんと見えていないということもある。女性から男性の苦しみが見えていないかもしれないし、男性から女性の苦しみが見えていないかもしれません。
 そこをもう少しちゃんと考え、あるいは話を聞いてみる。そういうようなことが私たちの関係を豊かにしていくことになると思います。それぞれ今の状態で居心地がいいという人もいるかもしれない。だけども本当に行きたい行き先に行くのに、それでいいのかどうなのかということを、やはり考えていかなければならないのではないかなと思います。
 仏教、真宗では、思いどおりにならないと苦しむ。苦しみから何とか逃れたい。逃れたいと思ってもがくときに、こっち(不如意)に合わせて逃れるか、こっち(私の都合)に合わせて逃れるかというと、どっちかというとこっち(私の都合)に合わせて逃れようとする。そうすると、そこに罪というものが生まれてくる。都合の悪い現状を私に引き寄せて解決しようとする。そうすると、どこかにしわ寄せが行く。
 お金で言えば、お金の量は決まっているんですから、世界中のお金が全部僕のところに来れば、みなさんのところへ全然当たらないのです。だから僕はお金を独り占めしていないのです(ウソ)。まあ、そんなようなことです。社長さんは一つの会社に一人しかいないんです。誰かがなったら、あと誰もなれないんです。校長先生なんて、今はなり手がなくて困っているんですが。
 こういうことで、よかれと思っていても、もがけばもがくほどややこしくしてしまうというのが私たちなんです。それはなぜかというと、本当のことがちゃんと見えないから。私の悩みを私の知恵で解決しようとしたときに、こんなはずではなかったということになる。ですから、私の知恵から手を離して、人間というものを見通した智恵、そういうものに聞いていかなければなりませんね。
 また話がそれましたので、戻りましょう。人間にはもう一つの知恵がある。
 記憶力や新しいことに対応する知恵は、歳とともに衰えていきます。これは笑ってごまかしてください。あともう一つ、お年寄りから教えてもらった知恵がある。人間の知恵は二通りあって、一つは歳とともに衰えていく知恵。もう一つは歳を取るにつれて深まっていく知恵というのがあるに違いない。この思いどおりにならないということが、人間の知恵を深くする。私たちの見る眼の濁りを取ると言ってもいいでしょう。
 今まで視力ではかるような目の見え方だったものが、見抜く力という視力計ではかれない、数字であらわせないような見る力。あるいは聴力、今はデシベルという数字であらわせますけれども、そうではなくて聞き取る力、言葉にならなかったところまで聞いていく力ですね。あるいは、出た言葉はそうなんだけれども、だけどその人が言いたい本当の気持ちはこうだということをちゃんと聞き取る、そういう力ですね。力というか聞き方ですね。
 それは、思いどおりにならないということの経験が私たちに与えてくれる、引き出してくれる、磨いてくれるというような知恵です。いろんなことが順風満帆にスイスイと進んでいる人は、浅い知恵で生きているに違いないと思う。だからひとたび挫折が起こったりすると、もう立ち直れなかったりする。あるいは投げだしてしまう。
 そうじゃない、先ほどのオペラのなかでもあったように、とても高いハードルを自分に課して生きていくなかで、いろんな人の関係性が変わってくる。関係性は同じかもしれないけれども、受け止め方、見え方が違ってくる。聞こえ方が変わってくる。深い知恵で受けとめることができるようになる。そんなことがあるのではないかということを思いますね。
 私たちは関係性のなかで生きている。であるならば、どういう関係をこれからも取り続けていくのかということを、お互いによく見抜き、聞き取りしながら、感じ取りながら築いていかなければならない。あるいは今の状態を見直ししていかなければならない。そんなことがあるのではないかなと思います。
 特に近代という時代になってから、西洋のデカルトという人は「我思う、ゆえに我あり」。考える私というのが一番素晴らしいかというところへ立つのですね。
 ですからあらゆることは、考えるこの私に納得できたら、それはわかったと、こうなる。この考える私が、いわば合理的説明ですね。この合理的説明を私たちはつい求めてしまいますけれども、その解ではすまないことがいっぱいあるわけですね。
 今学校にいて困るのは、親も先生も、子どもたちを叱るときには合理的説明をしなければならないと思い込み過ぎている。ちょっと前に、こういうことがありました。お父さんもお母さんも、親せきの一族みな大変な高学歴で、高ステイタスのお仕事をされておる。その二人のあいだに一人息子がいて、私どもの中学校に入っていますけれども、不具合なことをしたんです。それで生徒を指導し、お父さん、お母さんとも話し合いを重ねていくのですが。
 そのためにお父さん、お母さんに学校に来てもらってお会いをした。お父さんに「今回のことが起こってから、お父さんはどんなふうに子どもさんに接せられ、子どもさんの反応はどんなもんですか」と聞くと、お父さんはね、「いや実はまだ子どもを叱っていないんです」と言うんです。
 なぜかと言うと、「私はあの子がやったことが、なぜ、どうして悪いのかということを、あの子が納得できるようにちゃんと説明する自信がない」とおっしゃる。「校長先生は宗教家だからいい言葉を知っておられると思い、今日はそれを教えてもらおうと思って聞きに来ました」。私はちょっと腹が立ったので、「叱るのに理屈はなくてもいいんです。タイミングと迫力だけでいいです」と言いました。
 「私はおまえの親だ、おまえの成長に責任を持って一所懸命に育てている。だから今わからなくても、いずれわかるから、お父さんの言うことを聞きなさい。それはダメなことだ。今わからなくても、いずれわかるから。とにかくおまえのやったことは間違いなんだ。二度とするな」と言ってください、それでいいです。こういう話をしたことがあります。
 勉強でもそうでしょう。「先生、この勉強をしたら何の役に立つんですか」と聞かれます。特に文科系の方へ進んでいこうという子どもたちが、何で数学なんかしないといけないのか、物理学をしないといけないのかという例があります。
 これに対して、今子どもの持っているわずかの知識のなかでわかるように説明をしたって、それは閉じることなんです。勉強というのは、すればするほど今まで知らなかったすごい世界が向こうにあるということに出会うわけですからね。今わかったと言っても、だめなんです。あるいはわかるということが、むしろ狭くしてしまうんですね。
 私たちは『正信偈』の一番最初のところ、「帰命無量寿如来」 あるいは「南無不可思議光」。それは現代日本の二つのものの考え方というか、流れに対して鋭く問うてきます。その現代の考え方の第一は、あらゆることを数字にしていくということです。数値化、数量化です。特に価値判断をするときは、全部数字にしないと気がすまない。もう一つは、合理的説明がないと納得できないということですね。まず数値化の方ですね。
 「開運!なんでも鑑定団」というような番組が、どれほど私たちの気持ちを貧しくさせていくか。見るもの、見るもの、幾らやろうと。これは安いかもしれないけど、おばあちゃんがいつも使っていた茶碗で、これをお茶を飲むたびにおばあちゃんとのあれこれを思い出すというその茶碗は、値段と関係がないわけです。だけども、「その数字に書いたものこそが客観的な価値であって」と見る癖が付いている。
 あの子どんな子、偏差値45の子という感じにですね。席次何番の子、親もそう見てしまう。ときどき言うんですよ、お母さん方に。「成績というものは車の運転で言うたら、スピードメーターみたいなもんですから。スピードメーターを見ながら運転したらぶつかりますよ。車を運転するときにはフロントガラスのずっと先を、行く方向を見ながら運転していく。ときどきスピードメーターを見て、今どのぐらいかなと確かめるのが計器の数字というもんじゃないですか。そこだけ見ておったら事故が起こりますよ」と、こう言うんだけれども。「そうですか」と言いながら、次の日からまた戻っていく。
 だけど私たちが毎日読む『正信偈 』の一行目に、親鸞聖人は「無量」とされてあります。「無量」というのは、はかることができないほど、数えることもできないほど大きいとか、広いとかいう意味もあるけれども、はかること、数えるというそのことを否定するということです。数字にして、数えることに意味がないよ。計測不能だけでなく計測無効ですね。
 あるいは「無量」は、比べてはなりません。これは厳しい修行ですよ。比べてはなりません。他人と比べるだけじゃないですよ。過去と比べてもなりません。なぜかというと、先ほどのAKIRAさんの歌のとおり、私たちは常に生まれかわっている。昨日までいい子だった子が、今日から反抗するということはいくらもあるんです。その逆もある。あの「私の言うことを何でも聞いていた子が」と思っていた子が反抗すると、腹が立つわけです。
 つまり、こっちの都合に相手が合わなかったときに、相手を責めるんですね。こういうことにも、ついついなりますね。比べるというのは恐ろしいですよ。「結婚したてのころは、あなたはそんな人ではなかったのに」なんてよく言われますよね。過去とも比べてはならない。これは真宗門徒の修行みたいなもんであります。これは厳しいですよ。
 それから二行目の「不可思議」。思議すべからずですね。理屈、あんたに納得のできる理屈で解決がつくと思うなよということです。私たちは、自分の都合に合うように解釈できたときに、「わかった」と言います。合理的説明がついたと。
 新潟見出身の金子大榮という先生がおられましたね。その先生が親鸞聖人のことを詩にされて讃えられた「親鸞讃歌」というのが、七百回御遠忌のときに発表されました。金子先生は、親鸞聖人の生涯と言いますか、どういう方だったかということについて、親鸞聖人を慕う詩を、長いですけれどね、書かれた。「昔法師あり」という言葉で始まりますね。「殿上に生まれて庶民の心あり 低下となりて高貴の性を失わず」などとありまして、「本願を仰いでは身の善悪をかえりみず」というところがあります。
 身の善悪というのは、私にとって都合がいいか悪いかということです。大事なことはこの本願なんだということですね。本願というのは、私の知恵ではなかなかはっきりわからない、私が本当に願っていることですね。あるいは仏様が私に願われている。本願。私は本当はどうなりたいのか、どういう人生を送りたいのか、あるいは、人生を送ったあと、どうなっていきたいのか。あるいはどういう関係性を持ちながら生きていきたいのかという、私のどこかにある根本的な願いですね。先ほどのオペラのなかでは「愛」という言葉で表現されていましたけれど、ああいう愛されたい、愛したい、そういう関係性のなかで生きていきたいという、どこかで根源的なものがある。
 だけど目の前のさまざまな現実のなかで、それがねじれて出てくる。屈折して出てくる。一部分しか出てこない。あるいは出ようとしているのをわかっておりながら、自分で封じ込めてしまう。そんなことはよくありますね。
 子どもたちは、私たちもそうだけれども、人から嫌なことを言われると、出入り口をキュッと閉めてしまう。コミュニケーションを閉じてしまう。そうしたくなる。だけどそれを閉じてしまうと、入ってきた嫌なことが私の中で濃縮しちゃうんです。濃縮するとだんだんこれが毒になる。そうすると何かの拍子にコミュニケーションの扉がふっと開いた途端に、傷つける言葉で出ていったり、暴力で出ていったりね、そこで毒を吐くんです。
 私たちは健康な状態というのは、肉体的なことでも精神的なことでも、いろんなことが出たり入ったりしているのが健康なんです。だから、いろんなものに出会い、刺激が入ってくる。そして私も表現し、感じたことを出していく。あるいは痛いものは「痛い」と言うことも大事なことですね。
 私たちは自分の不幸でさえ、私事にしてしまう。変な言い方ですけれども、「あんたなんかにわかってもらえるはずがない。わかったなんて言わないでください。この私の不幸は私だけにしかわからない。私だけの大事な不幸なんです」と、変な言い方ですけれども、そんな感じにさえなる。
 私たちは苦悩とか苦しみとか不幸とか、そんなものさえ独り占めというか、私事にしてしまうんですね。できるだけ開いていくには、どうすればいいんだということですね。いろんなものが入っては出ていくんですね。
 教育というのも、僕はそうだと思います。日本中で今何となく教育のイメージが、「子どもというのは空っぽの瓶のようなもの」ですね。そこにいろんな知識を入れてやって、小学校時代にはここまで、中学校ではここまでと、いっぱいになったらオーケーと。そういうもんじゃないですよ。教育はそういうもんじゃないのです。
 『無量寿経』というお経のなかに「開導」という言葉があります。仏様は私たちの出入り口を開けてくださる。そして私たちが本来持っているものを引き出してくださる。そういうことなんですけれども、教育も一緒で、知識を入れるのは、その子どもが今まで得てきた知識と、今日習った知識を重ね合わせて自分の知恵として出していくという、この出していくために入れていこうとする。正しい知識をきちんと入れていったほうが、正しいものが出てくる。そういうことですね。そんなようなことで、出たり入ったりということでありますね。
 それで本願という、私自身がよくわかってない願いを仰いでいく。私が持っていると思っている願いとか、希望とか、望みというものが、実はいろんなものに引きずられた望みなんだ、引きずられた願いなんだということがたくさんあります。さっきも「みんな」という話で、みんなに引きずられるという話をしましたね。いろんなことを言いましたけれども、本当の私が、本当になりたい状態は何だろうかということを、人間の知恵を越えたところに聞いていかねばならない。人間や世界を、本当に見通し見抜かれた仏様の智慧に聞いていく。そういうことで本願を仰ぐということが最優先ですね。聞き続けていく。
 そのときに、自分にとって都合の悪いことも引き受けていかなければならないかもしれない。それから「念仏に親しんでは無碍の一道を知る」とあります。念仏の「念」というのは、私の個人的思いですけれど、「こころの顔がどっちを向くか」という意味だと思いますね。ですから念仏というのは、私のこころの顔が仏様のほうを向いている。仏様のほうを向いてるというのは、真実というもののほうに向きたいと思っている。真実のほうに向くと、実は現実と真実は重なっているということに出会うんですね。つまり、現実は仏様の前の世界、出来事である。そうすると、現実から逃げ出さなくてもいいということが起こってくるんだろうと思いますけれども、時間の関係で今日はその話はできませんね。
 念仏ということがはっきりすると、親鸞聖人は『歎異抄』という書物のなかでは、「念仏者は無碍の一道なり」とあります。「無碍の一道」であると。「碍」というのは私が進んでいくのを妨げるものという、これがあるからできない、それが「碍」ですね。だけど「無碍」というのは、どんな障害も乗り越えることができるということではないんです。今まで障害だと思っていたことが、実は私にとっての大切なことだったというふうに見え方が変わるということ。
 歳を取るからできない、病気になったからできないと思っていたけれども、歳を取るということは、私の知恵を深くしてくれる。自分の身体一つが自分の思いどおりならないという状況のなかで、私は本当に見る目というものを開かされたということがあるんです。今まであれがあるからできないと思っていたそのことが、私を育ててくれていた。私に気付かせてくれる大事なことだというふうに見え方が変わってくる。
 そうすると歳を取ることも、思いどおりにならないさまざまなことも、私にとって大切な必要なことだったんだというふうに見え方が変わってくるんではないか。えらそうに言っていますけれど、私ができているというわけではないので、弁解しながら言っています。
 それから、このこともちょっと知って欲しいんですけれども、特に私はそう思うんだけれども、今日最初のほうで、私たちはものごとを二つに分けて、自分はそのどっち側かなというふうに思う癖があると言いました。そうじゃない。分けることそのものをやめようということです。それが必要ではないかと思いますね。
 勝ったか負けたか、損か得か、敵か味方か、成功か失敗か、加害者か被害者かというふうに分けると、対峙することになります。平等ということと対等ということは違うと思うんですね。対等というのは向き合って、低いところは高いところまで上がるという、そういうことですね。そうすると、なかなか本当の平等ということになっていかないと思うんです。そうではなくて、二つに分けない、分けてはならないのが、「一道」の「一」ですね。
 今日申しあげましたように、私は、人間とは弱いもの同士だったんだと気が付いたときに、「ああ平等だったのに」と教えてもらったということですね。「私たちが人間に生まれたということは、本願を仰ぎながら生きていくものとして生まれている」ということです。そうしたときに同じ方向を向いて、先へ行っている人もいる。ちょっと遅れて行っているかもしれない。歩くのが遅い人もいるかもしれない。だけど方向を同じくしている。目的地を同じくしている。
 ですから「本願を仰いでは」と言うとき、「浄土を仰いでは」と言ってもいいと思いますね。そういう私たちの濁った世界ではなくて、清浄な世界というものを、清浄な世界というのは本当にそれぞれの関係性が、先ほど趣旨説明のなかで、「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」という言葉が出てきましたけれども、あなたがあなたのままで、それぞれと関係が結べていくという関係性というものを、どこで展開させてもらえるか。違ってしか生きられないんですから。みんな同じ顔だったらどうします。
 あるいは、いろんなところに人魚伝説というのがありますね。人間のかたちをしている魚、人魚伝説。福井県の小浜というところの人魚伝説は一風変わった人魚伝説ですね。それは網にかかった人魚の肉を食べるという話なんです。人魚の肉を食べると、その瞬間から、食べたときから一切老化しないんです。百年、二百年、三百年、つまり今日みなさんが人魚の肉を食べたら、今のこの姿かたちが何百年もずっと続くというんですけど。目の前に肉が出されたら食べるかどうかという話です。
 私たちは刻々と変化していきます。先ほどのAKIRAさんの歌のように、一瞬一瞬死んで生まれて、死んで生まれて生きているわけです。ところが私の、この合理的説明を求めるこの脳みそは、それを続いているように思います。実際は事実に付いていけていないんですね。
 「一道」の「道」という漢字を見ますと、この部分は「首」です。首というのは大臣のなかで一番中心になる大臣が首相。バッターのなかで一番よく打つ人が首位打者、そういう「首」です。一番中心になること。「しんにゅう」は進むという意味です。人間に生まれて、私が人間として生きていくなかでの一番中心になるものが「首」ですね。これがはっきりしないとあらゆることがぐずぐずになってしまうような、一番中心になる「首」が進む場を「道」という。
 親鸞聖人はその一番中心になるものを「心」という言葉で表して「樹心」と言われました。その「心」がきちんと立つ。どこに立つのかというと、「どんないのちも間違いなく包み支え、どの人も捨てないよ」と約束する大地のような世界(弘誓の仏地)がある。そこに安心して立つ。安心して思いどおりにならない現実を生きていくんですね。大きなところでの安心ですね。
 だから自立するというのは、立つ大地に出会ったということです。そういう一番中心になるものが立つ、揺るぎなく立つ。揺るぎなく立つということは、はっきり言えば大地とコミュニケーションがきちんと取れている。
 ちょっと抽象的な話になりましたけれども、私たちが生きている世界の関係性というのをもう一度見ていく。いろんな制度とか組織とか仕組みとかいうものは、これは手段です。目的実現のための手段です。目的が大事なんです。
 その目的に行くために、今のこの制度や仕組みでいいのかということを、やっぱり見ていかないといけない。それはそれぞれが、今いるところで自分のまわりを見ながら、おかしいところはおかしいんじゃないのと話し合って、変えるところ、変えにくいところがいろいろあるかと思います。そんななかで、そういうことをしていかねばならないのではないかなと思いますね。
 ですから、自分を殺して他に合わせて生きていくのではなくて、他を殺して自分を主張するのではなくて、共に生かされ生かし合うような関係がどうできるんだろうかというようなことを、私たちは求めていかなければならないのではないかなと思います。
 よく真宗のお話のなかで、ただ生きているんでない、生かされて生きているんだと言いますけれど、それはそのとおりなんですけど、同時に、私たちは生かされて生きていると同時に、何か誰かを生かして生きているんです。お互いに相互的に関係し合っているんです。
 お客さんじゃないんです。どんなになってもですよ。認知症になろうが寝たきりになろうが、誰か何かを生かしているのに違いないんです。そういう意味で、生きているのはこの世に必要だからです。私が生きていることには意味があるのです。私がいて、他のすべてがあって、この世が成り立っている、この瞬間にですよ。次の瞬間はまた生まれ変わるんです。関係性は常に変化しているのですから。
 そんなことで、私の目と私の知恵では解決がつかないし、しようとすればするほどゴチャゴチャこんがらがっていくということを認めたうえで、こういう世界を見抜かれた、見通した智慧に聞いていく。それを日ごろの日常の言葉で、手を合わせたときに「南無阿弥陀仏」というのがそれです。私が中心ではなくて、阿弥陀仏というほとけの願いに心を向け、凡夫でしかないこの私に、濁りいっぱいのこの私を、そのおまえを救うよと約束している仏様に顔を向けていく。南無というのは念仏の念です。顔がそっちを向くという。最大関心がそちらへ向くということですから、そこへ聞いて生き続けていくということですね。
 このときも、さっきの勉強のところで言いましたけれども、ときどき仏教の勉強をしていると、「あ、よくわかりました、そういうことだったんですね」ということがあります。しかし実は、それは私の都合のいいように解釈できたということが多いんですね。それがしばらくすると、あれは自分の勝手な解釈だったなと、また破られていくという。そういうことの連続なんですね。
 破られていく快感というのがあるんです。自分が今まで思い込んでいた、これが正しいに違いないと思っていることが破られていく快感というのがあるんですね。そうしたときにちょっと違う世界が広がったりしますね。さわやかな風に当たることができたような気がしたりですね。そんなことがあるんではないかなと思います。
 たいへん抽象的なことが多かったなと反省しておりますが、いろんな所属や世代の人に、どうやったらうまく伝わるだろうかと思いながら来て、やっぱりたいへん難しいなと思いながら、ずっとおりました。けれども、そういうことをわかるというよりも、感じたり、何となく違ったり、気付いたりとか、思ったりとか、うれしかったりとか、わからないけど涙が出したりとか、そういうことが、みなさんと時と所と人を共にすることができたということを、喜びたいと思うことであります。
 以上です。


2008年6月1日(日)開催

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