| 「三条教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌お待ち受け大会」 |
| 「三条教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌お待ち受け大会」記念講演 「南無阿弥陀仏をとなうべし」 |
| 池田勇諦 師 |
ご紹介いただいた池田でございます。今日は皆さん方とご一緒に、この大切なお待ち受け大会に参加させていただきましたことを、まずもって感謝いたすことでございます。ひとときですけれども、提出いたしております課題のもとで、お聞きをいただこうと思いますので、最後までお付き合い願います。3年後に親鸞聖人の七百五十回の御遠忌法要をお迎えすることでありますけれども、単に御法要をお勤めすることが目的ではないはずであります。と申しますことは、私たち一人ひとりが本願念仏に生きるものとして起つ、千載一遇の縁とすることにあるからであります。その意味で振り返ってみますと、この前の七百回の御遠忌法要はどうであったか。その点、あらためて申すまでもないことでありますけれども、同朋会運動興起の縁になったことでございます。 それでは今回の七百五十回の御法要はどうなのかと。そこを考えてみますときに、10年前に蓮如上人の五百回御遠忌法要を勤めさせていただいたということを潜って、今回の御遠忌法要が生起してきておる。そこを思いますとき、何と申しましても蓮如上人がお取り組みになられた姿勢に私たちは学ばねばならぬのでないかと思うわけです。端的に申しまして、同朋会運動の受け取り直しをさせていただくご縁ではないかと、申しあげたいわけであります。 蓮如上人と申しますと、ご承知のとおり真宗再興の祖師と、再び興す、再興の祖師と言われることでありますけれども、その再び興す「再興」ということは、単に復旧とか復元とかいうことでなくて、あの戦国乱世の只中において、親鸞聖人の浄土真宗を受け取り直しをされた。それが蓮如上人の真宗再興ということであったわけでございます。ですから再興はどこまでも創造であります。クリエイト。新しくつくる、はじめる、ということでございます。 そういたしますと、今回の七百五十回の御法要をお迎えするということは、もはや50年にもなろうとしておる同朋会運動を今こそ、今日の場において私たちは受け取り直しをさせていただかねばならぬのではないかと、私は強く思うわけでございます。 それは、同朋会運動の出発点、原点は何であったかということであります。それは「真宗門徒一人もなし」という現実認識、つまり危機意識でございます。それは言葉を換えれば、宗門としての懺悔であります。その懺悔に立って出発したのが同朋会運動でございました。 そういたしますと今こそ私たち、その同朋会運動の原点に立つという、このことが何よりも大事なことがらではないかと。本当に「真宗門徒一人もなし」という、この危機意識でございます。 こうしてご縁をいただいてきておるお互いでありますけれども、本当に宗祖親鸞聖人が顕かにしてくださった浄土真宗を正しく聞き受けているか、聞き開いておるのか、この点を何よりも自問しなければならぬのではないか思うわけでございます。 そこに注目いたしますときに、今回の御遠忌をお迎えするについて、宗門が発信しておりますテーマ「今、いのちがあなたを生きている」。これが発表されまして、ちょうど丸3年になるかと思いますけれども、その間、皆さん方もいろいろなかたちでお話もお聞きになり、あるいはまた、いろいろお読みにもなり、あるいはまたいろいろお話し合いもなさってきたことだろうと思いますが、皆さん方はこのテーマをどんなふうに受けとめていらっしゃるのでしょうか。 いろいろなお声を聞きます。「難しいですね。わかったような、わからぬような言葉ですね」。そういうご発言から、「とても大切なこんにちの課題をあらわしてくださっているお言葉だと思います」という積極的なご発言まで、いろいろ承るわけでありますが、そういうなかで私がよくお聞きいたしますお声として、「この御遠忌のテーマというのを親鸞聖人の言葉で表現するとなったら、どういう言葉があげられるのでしょうか。どういう言葉が注目されるのでしょうか」。そういうお声をよく聞くわけであります。 そこを私自身、自問いたしますときに、これだということを最近自分のなかであらためて確認をさせられておるわけでございます。それが今回提出いたしております講題の言葉「南無阿弥陀仏をとなうべし」であります。みなさん方ご存じのところでありますけれども、親鸞聖人のご和讃、なかでも『正像末和讃』の第53首「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし」(『真宗聖典』505頁)ご承知のとおりであります。 この第四句の一句です。「南無阿弥陀仏をとなうべし」。私はこれだと思うのです。「今、いのちがあなたを生きている」。これを親鸞聖人の言葉で表現すれば、この言葉に尽きるのではないかと。その感銘を強くしているわけでございます。 この御遠忌のテーマは、「あなた」という呼びかけ体になっております。であれば、当然誰が誰に呼びかけているのかということが問題になるわけであります。これが御遠忌のテーマであるということからいたしまして、それは宗祖親鸞聖人がこんにちの私たち一人ひとりに呼びかけてくださっておるお言葉、メッセージだと申すことができるかと思うのであります。 このテーマのお言葉からいたしますと、私たちは生きていながら生きる主体を問うたことがない。そんなかたちで流されて生きているのですね。そういう私たちに「真実の主体に目覚めて生きましょう」、「真実の主体に目覚めて歩み出しましょう」と、親鸞聖人が促してくださっておるのですね。 ということは、このテーマの焦点になっております「いのち」という言葉からいたしますと、まさに真実の主体としての「いのち」に目覚めて歩んでまいりましょう。したがってそれは身近には、「いのち」の呼びかけを聞いてゆきましょうと。「いのち」が呼ぶ声を聞いてゆきましょう。このように親鸞聖人が私たちに促してくださっているのですね。 そうなりますと、御遠忌テーマは決して難しいことではないのです。「南無阿弥陀仏をとなうべし」と。これに尽きるのではないかと思うのです。だからこの御遠忌テーマをとおして、私たちは親鸞聖人のこの「南無阿弥陀仏をとなうべし」と。このひと声をよくよく吟味ちょうだいすべきではなかろうかと思うわけなのです。そのことについて、今一言みなさん方に申しあげたくて、今日はこのような題を提出させていただいておるわけでございます。 そういたしますと、「いのち」が呼ぶ声を聞いてゆく歩み、それをはじめましょう。親鸞聖人がわれわれに願ってくださっておる。念じてくださっておる。それはほかならない称名念仏でしょう。「南無阿弥陀仏をとなうべし」は、称名念仏の声ですね。「いのちの真実の声を聞いて生きましょう」ということは、「称名念仏に生きましょう」ということでしょう。 ところが称名念仏ということが本当にわからぬことになっているのではないかなと、日ごろいろいろなことをとおして考えさせられるのですね。本当に親鸞聖人が顕かにしてくださった浄土真宗の内実というものは、一言で言えば「称名念仏に生きましょう」、「南無阿弥陀仏をとなうべし」、これに尽きるはずなのです。それほど大切な一言なのですけれども、これが必ずしも私たちに明らかに聞き開かれていないのではないかということを、私は反省させられるわけでございます。 称名念仏と言いますが、「どんなこころで称えたらよろしいのでしょうか」。称えごころを問題になさるだろうと思うのです。たしかにそのとおりなのです。何で称えごころが問題になるかと言ったら、念仏もうしながら助からない私の事実があるからなのです。だから称えごころを問題にするということが起こるわけです。 親鸞聖人もそれをはっきりと述べておられますね。称名は「よく衆生の一切の無明を破し よく衆生一切の志願を満てたまう」(聖典213頁)。お言葉どおりでありますが、「しかるに」と いう言葉がそこで出るのです。「しかるに称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかん」(同頁)。有名なお言葉ですけれども、それですね。お念仏は私たちの闇を破り願いを満たすと。それはお念仏のはたらきだ、救いだということをまず押さえられる。 ならば救われていてよさそうなものです。ところが念仏申しながら救われていない私の事実があるのは、どうしてですか。ここに称えごころということが問題になるわけなのです。 そうすると、この今いちいち申しあげておれませんけれども、親鸞聖人は、その点を端的に申しますと、お念仏の超越性を顕かにされたのです。超越性というと、わかる話がわかりにくいかもしれませんけれども。つまりお念仏というのは、私の称えものではない。「法」だと言うのです。「所聞の法」、聞くところの法ですね。称名念仏の根拠は私にあるのではないのです。諸仏称名の願とおっしゃいます。諸仏称名が称名念仏の根拠でございます。 ここになりますと、みなさん方も思い合わせてくださるでしょう。『歎異抄』の第8条の有名なお言葉ですね。「念仏は行者のために、非行非善なり」(聖典629頁)と、こうありますね。私たちはこれが解らぬのです。私たちは、念仏は私にとって行であり、善であると、無意識のうちに受けとめておりますから。 「念仏は行者のためには、非行非善」だ。行にあらず、善にあらず。それは私の計らいで行ずる行でないから非行、私の計らいでつくる善でないから非善だとお述べになっております。 ということは、この口に仏がお出ましになる、それを聞く。それが称名念仏なのですね。それをおっしゃるわけです。ここは本当に私は真宗の仏法の「単純の極まり」だということを日ごろ強く感ずるわけなのです。仏法と聞かせてもらうと「難しいですね」とか言うのですけれども、単純の極まり、あらゆる複雑さを潜った単純の極まりというのはこれなのですね。私のうえに仏が来てくださっておった。この驚き。それだけです。信心というのは、そのことを言うわけですからね。 日ごろお話し合いの席でよく私も聞くのですけれども、「なかなか本当のお念仏というのは、となえられませんね」。そういうことをおっしゃる方がよくあるのですね。私はそういうことを聞くと、必ずその方に問うのです。「あなたは今、本当の念仏とおっしゃったけれども、本当の念仏って、どんな念仏なのですか。」と、お尋ねするのです。 するとこう言われる。「本当の念仏と言ったら、腹の底から、他事を思わずに一心に称えることができたら、本当の念仏なのでないのでしょうかね」とおっしゃるのでね。「ああ、そういうこと。それなら一心の念仏と言わず、それは無我夢中の念仏と言うのです。」そうなのですね。そうでしょう。称名が私に根拠を持つ限り、そういう発想しかできないわけなのですね。 ところが今申しますように、諸仏称名です。根源的に言えば如来が私に名告り出てくださっておる声が称名念仏を聞く。それだけです。だから称名即聞名だと言われるのは、そこですね。 私が憶念していることの一つですけれども、加賀の有名なご大徳、暁烏敏先生。みなさん方もよくお読みになったり、お聞きになったりしておるところでしょうけれども、こういうことを私はお聞きしたことがあります。藤原鉄乗師からお聞きしたのですけれども、藤原鉄乗という方は、この三条のご出身なのですね。暁烏先生に出遇われて加賀へ行かれたという、そういう方なのです。 ある人が暁烏先生に問うた。「お念仏はどのような心でお称えしたらよろしいのでありますか」。みんな言いそうなことですね。そしたら暁烏先生が何とおっしゃったと思いますか。とぼけたような顔をしておっしゃったのだろうと想像するのですけれどね、「お念仏か、あれはな、おならみたいなもんじゃ。」そしたら、あとで「暁烏という坊さんは念仏とおならを一緒にしてしもうた。」と言ってやかましかったということがあったそうでございますけれども、私はそれを聞いて、そうか「出るまま」ということですね。どんなこころでおならをしたらよろしいのでしょうか。そんなばかげたことはございませんね。 これもよく話になりますね。お念仏って、どんな程度の声がよろしいのでしょうかという人もある。法然上人にそういうことを聞いている人がおりますけれども、今のことからすると、どんな程度の音のおならがよろしいのでしょうかというのと一緒でね、まことにこっけい至極なことなのであります。 出るまま、つまり親鸞聖人は称名念仏の根拠は「諸仏称名の願」だといただかれたということは、称えごころの問題から解放されたということです。どんなこころであるかとか、そんなことは関係がないのです。さっきの話ではないけれど、本当のお念仏なんて申せませんねという話からすると、本当の念仏なんて私たちにありっこないのです。仮にできたとしても、それはたいしたことではないのです。そういうことでないですか。 ですから、称えごころの問題から出発して、称えごころの問題から解放されたというのが親鸞聖人です。いつでも、どこでも、誰のうえにあっても、所行の法である。所聞の法である。「おおきに所聞を慶喜せん」(聖典481頁)とご和讃にございますけれども、聞くところの法なのですね。仏の呼びかけなのです。「いのち」の呼びかけなのです。 本当にそこが私たちに容易に明らかにならないのですね。やっぱり根拠をこちらに置きますから、称えごころの問題に何か振り回される、呪縛されているという感じでありますね。 そこでそのことをもう一押し確認をしたいのですけれども、今日お集まりのみなさん方は日ごろ聞法を重ねていらっしゃる方が多かろうと思うのですけれども、どうですか。本当に親鸞聖人が顕かにしてくださった仏法というものに、お触れくださったでしょうか。 私はこういう言い方をちょっとしてみたいわけなのですね。私たちの日ごろの仏法の聞き方というのは方程式で書くとすると、自分+仏法=救済(救い)。そういう方程式を無意識のうちに実は妄想しているのですね。 どういうことかというと、今日なら今日でも、みなさん方そうかもしれません。こういう席へ連なって教えを聞くということになると、私たちの態度というのは仏法を自分のほうへ引き寄せて解ろうとするのですね。如何ですか。だからあとの言葉は決まっていますね。「わからんな。難しいな」と。いうことにならざるを得ないわけなのですね。 私たちはそこからすると、何か仏法を解ろうとしているのであって、仏法をまったく聞いていないのです。それが今日の私の姿ではないかと思うのですね。仏法が私に何を願ってくださっておるのか、何を念じてくださっておるのかということを、まったく棚上げしてしまって、ただ解ろうというのですね。解ったら救われると思うのです。解っても救われないのです。おあいにくさまなのです。私たちの妄念、妄想からすると、そうでしょう。みんな仏法をこちらへ引き寄せて、解ろうというのです。 こういうことはじっくりと腰を据えてお話し合いをする問題だろうと思いますけれども、みなさん方、日ごろのご自分の姿勢ということで、ひとこと受けとめていただければと思うわけなのです。 私たちは解ろうとしている。解れば救われるだろうと思うのですね。私たちの妄念、妄想の分別の桁で、仮に解ったとなっても救われないのです。そこで言うならば、解っても、解らんでも、チョボチョボなのですね。同じなのです。 それならどういうことになるのでしょうかと、そこであらためて問わなければならぬことでありますけれども、そこになると私はね、引き算ということを思うわけです。どういう引き算かと言いますと、自分−非自分(自分にあらざるもの)。この方程式です。 私たちは私とか自分とか言っているのですけれども、そのなかに自分と言えないものが混入しているのです。私と言えないものが混じっているのですね。それをごちゃ混ぜのままで自分だ、私だと言っているわけだから、はたしてこれが本当に自分と言えるものなのか、自分のものと言えるものなのか。そこをいちど点検して、自分のものと言えないもの、自分とは言えないものだということが判明したら、それを引けというのです。自分という中から引くのです。 ちょっと一言、二言申し添えますね。その計算をみなさん方がなさっていただくといいのですね。私たちは本当にもう自分の外にも内にも、自分のものというものをしっかり抱え込んでおるのですね。私の財産、私の子ども、私の何々、外には。内にはどうだと。私の身体、私のいのち、しまいには私のこころ。みんなそういうかたちで抱え込んでいるのですね。持っているのです。ところが、それがはたして自分と言えるのか、自分のものと言えるものなのか。そこを吟味せよというわけです。 自分のものか、非自分(自分にあらざるもの)か。それを区分けする基準はいったい何かと言いますと、それは教えの上から申しますと、私の自我意識によってそれが存在し、自我意識によってどのようにでも支配できるものであるならば、それは自分のものと言える。「自分と言える。」と言えないのであれば、自分のものとは言えない。自分とは言えない、ならばそれを引かなければならない。 そこまで申しあげると、みなさん方にいちいち言うこともないかもしれませんね。私の財産とわしづかみにしていますけれど、私の自我意識で存在して、自我意識の支配下にあるものなのでしょうか。 万事因縁と教えていただくのが仏教であります。すべては内なる条件と外なる条件の出会いによって生起してくる。条件次第ということですね。いくら自分がああなりたいと思ったって、因縁が整わなければなれませんね。 反対にあんなことに会いたくない、あんなものはこちらへ来てもらいたくないと思っても、因縁が整えば待ったなしにあらわれてきます。やってまいりますね。因縁ということの厳しさでございます。ものごとは条件次第だということですね。そうすると私の財産といってわしづかみにしていますけれど、実は因縁によってあらわれ、また因縁によって去っていくものですね。 これは日ごろ座談会をしていると、なかなか面白いことをいろいろ聞かせてくださるのですけれども、「いやあ本当にね、不思議なもんですわ。娘を嫁がせようということがありまして、そういうめにあったら私は財布をしめおるんですけれども、財布のほうから口を開けてお出ましになっていきますね」なんておっしゃいますけれども、本当にそうです。一事が万事なのです。そうすれば私の財産と言えませんね。私の中から私の財産を引かなればならない。こういう計算です。あとみなさん方、推しはかっていただけますね。 今度自分の内に目を転じてみますと、私たちは私の身体、本当に私なのか、私のものと言えるのか。自我意識によってこの身体が存在し、支配できるものなのでしょうか。 これも私の印象に残っているのですけれども、京都のご本山の近くのあるお寺の前を通りましたら、掲示板がございましてね。そこで見た言葉なのです。「老・病・死」老いる、病む、死ぬですね、「老・病・死。このあたりまえのことが、ただごとでないことを、身体から教えてもらうこのごろ」、はっとしましたね。頭からとは書いてないのです。「身体から教えてもらうこのごろ」 石川県に藤原正遠という方がおられたのですけれども、その方が本当によく言われたことの一つに「人間はつねに鏡を見なければいかん」と。そんなことを聞くと、若いうちならともかくも、歳を取ってそんな鏡なんてと、言いたくなるわけなのですけれども、そうじゃないのですね。歳を重ねれば重ねるほど鏡を見なさい。何でやと言ったら、鏡を見るとわが顔が映ります。映るとどうなるか、「私も見事に壊れてきたな。」ということを鏡が教えてくれるというわけです。 みなさん方、時々刻々壊れつつあるのですよ。私のものだったら壊れません。老化なんかしません。病気にもなったりもしません。ましてや死んだりもいたしません。けど私でないから老います。老化します。病も出ます。やがて死んでいきます。私だ、私のものだと抱え込んでおりますけれど、私のものでないという証拠が出ていますね。これは鏡を見たらわかる。 今日もみなさん方お帰りになったら、あらためて鏡を見てください。「見事に壊れてきたな」と、そうでしょう。真剣な話です。そうすると、私と言っている中から身体を引かねばいけないね、これ。 そう言えば、あとは言うまでもございませんね。私の「いのち」と言うけど、同じことですよ。「いのち」が私の自我意識で存在して、自我意識の支配下にあるのならば、私たちは死ななくてもいいでしょう。死にたくないのですから。だいたい生まれてもこなかったかもしれませんけれどね。私の「いのち」というかたちをとっているけれども、実質は私の自我意識を超えているわけですね。私のものと言えない。「いのち」も引かなければなりません。 そうすると、この引き算の答えはどうなるのでしょうか。自分引く自分にあらざるものイコール「無我」と言うのです。仏教の言葉でそれを「無我」という。我無しと書いてある。それは何もないというのではないですよ。何もないという無ではなくて、私のものと言えない、つまり所有の無なのですね。存在の無ではなくて所有の無です。私のものと言えるものは一つもないということを「無我」と言うのです。だから「無我」ということは、本来私たちの存在は「無我」であるのです。「無我」であるということに気付くということなのですね。 そうなりますと、そこで「無我」ということがあらわしているおこころといたしまして、そこには二つの面があるのです。この二つの面というのが教えのうえの言葉から言いますと、別にその言葉を出さなくてもいいのですけれども、いわゆる私たちの信心という問題は必ず「機法二種の深信」ということで教えられるでしょう。「法の深信」と「機の深信」ということが言われますね。 そうすると「無我」ということは一面においては、この存在が法身であるということです。法身としての存在だということをあらわしているわけです。「私だ、私だと言っているけれど」、ではないのですね。「法身としての存在」。 生き甲斐とか、生きる喜びとかいうものは精神論ではないのです。はっきり言いますと。生き甲斐とか、生きる喜びとはどんなふうにこころを持ったらよろしいのでしょうかと、すぐ私たちは考えるのですけれども、そうではないのですね。存在そのものにあることなのです。生きる喜びとか、生き甲斐とかいうことは、私のこころの云々ではなくて、存在そのものが持っていることなのです。 それに気付くということなのです。だから今、言いました法身としての存在に、私たちは気付かせていただく。それが「無我」ということの一面でございます。一つ根本になります。そのことが知らされることによって、今一つ、何が教えられるかと言ったら、それを私して私有化して生きている罪人としての自我意識の私です。それが明らかになる。 一面においては法身としての存在、これが知らされれば知らされるほど、一面においていよいよそれを私して、私有化している。その自我意識ですね。罪人としての自我意識です。 ですから根本は今の引き算から申しまして、無我法身としての存在ですね。それを先覚は「絶対他力」という言葉で表現してくださっておるわけですけれども、絶対他力の存在なのですね。今申しあげた、生きる喜びとか、生き甲斐とかということは精神論ではないのです、こころの持ち方というものではないのです。存在の意義に目覚めることなのですね。そうすると「どういただいたらよろしいのですか」と、そんなことではないのです。 私は三重教区の人間ですが、三重教区と言いますと、元総長をなさいました訓覇先生が出られた教区、同朋会運動を提唱してくださった先生であることはご承知のとおりです。あの訓覇先生がご自坊で同朋会をずっとなさっておりました。そこでおっしゃったお言葉なのですけれども、ある人が訓覇先生にお礼を言ったのですね。何のお礼を言ったかといったら、「私は本当に長いあいだ、解らぬ解らぬと引きずっておりましたけれども、今日聞かせていただいて本当に腹に落ちました。ありがとうございました。」と深々とお礼の言葉を言われたのですね。 そうしたら訓覇先生が何と言われたと思いますか。先生をご存じの方であれば雰囲気を想像していただくとよろしいのでありますが、「何、腹に落ちた。そんなものが、仏法が解ったと言えるか。本当に解ったら腹が落ちるんや」。私はそれを聞いて、本当に絶句しましたね。あまりみなさんびっくりなさいませんね。こういうまことの言葉に出遇ったらハッとする、この感覚ね。仏法はそれだけです。聞いた話しを覚えて帰るとか、とんでもない話なのです。 私はときおり意地悪なことも言うのです。「あんた覚えて帰ったらな、間違っとるに決まっとるからやめなさい」と。記憶の問題ではないのですね。「まことの言葉」に出遇ったときに、ハッとする感覚です。本当に私はこの訓覇先生の言葉からすると「腹に落ちる」、これが私の終点です。一所懸命に聞いて行き着くところはどこだ、「腹に落ちる」ということ。「腹に落ちたら」ああよかったと、こう言うのですね。 ところがそうじゃないのですね。本当にわかった世界というのは「腹が落ちるんや」そこをお感じいただけるでしょうか。みんな私たちは「腹に落ちる」、そんな聴き方をしているのですね。ところが「腹が落ちる」という世界は、これは「無我」の世界でしょう。精神論ではないのです。存在そのものが持っている意味に気が付く。誤解を恐れずに申しあげるならば、いただく必要のなかった世界がはっきりすることですね。称名念仏によって聞名、この口に仏があらわれてくださる。呼びかけてくださっておる。この声を聞くという、その世界は気付く世界ですね。それだけです。 「今、いのちがあなたを生きている」ということは、今申しあげてきたことから言えば精神論ではないのです。精神論にするとわからぬようになってしまうのです。そうではなくて「私たちの存在そのものが持っている意義に目覚めよ」ということなのです。その声、「いのちの声」が南無阿弥陀仏、称名念仏、「南無阿弥陀仏をとなうべし」、南無阿弥陀仏という念仏を聞く。どこかにある念仏ではない、この口にあらわれ来たってくださっておる、この呼びかけを聞くのです。 申しあげたとおり、称えごころ。称える動機、関係ございません。そんなことを言ったら、みなさん言うこともないですけれども、私たちにとっては不純そのものではございませんかね。みなさん方はどうですか。お念仏を口にするという場合「口癖」、これがまずございますね。ときには「腹立ち紛れ」ということもございます。あるいは「当てこすり」ということもございます。あるいは「あくび混じり」であったり。口にする動機とかそういうことからいったら、そんなものしか何もありはしませんがね。 殊勝なこころからみなさん方はお称えになるのですか? 殊勝なこころでお称えになったって、あくび混じりの念仏であったって同じですよ。ちょぼちょぼですよ。あくび混じりの念仏だからだめ、ありがたい気持ちで称えたから、それはよいでしょうと、そんなものではない。お念仏は「いつでも、どこでも、誰のうえにでも、あらわれた念仏は所行の法」なのです。諸仏称名です。仏の呼びかけです。それが解らぬから、私たちは念仏申しておりながら救われないわけでしょう。 よくよくかみしめてください。何かこだわりましたけれども、この南無阿弥陀仏、称名念仏ということは私の真実の主体ですね。もっとやさしく言ったら、「おまえが生きておるんじゃないよ」という声が南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏を憶念させていただいていく生活、それを今、ご宗門では「お内仏中心の生活」、「ご本尊中心の生活」、そういうかたちで言われてございます。みなさん方のお家には、みなお内仏が奉安されておることでしょうけれども、そこです。 そのことを最後にひとこと申しあげたいのですけれども、そのことでこれもいつもお聞きすることの一つなのですが、若い方からよく言われるのですね。「仏さんに手を合わせよと言ったって、開いたら何やら絵が描いてある。あれは人間が描いた絵じゃないですか。ああいうものに手を合わせるなんて、それこそ偶像崇拝、ナンセンスじゃないですか。拝む気にはなりませんね」こうおっしゃいます。 私は、それは本当に正直な言葉だと思います。だから本当のことを言ってくださると話ははずみます。私はそれを聞くと、いつも言うのです。「ところであなたのおうちで亡くなっておられる方はありますか」と、「親父が死んでおります」「ああそう、そのお父さんの写真があるでしょう。どうなさっておりますか」「どうなさっておるって、座敷に上げてあるから、時折ですけれど写真にちょっと手を合わせたり、頭を下げたり、することはありますけれども、まあまあ知らん顔ですね」こう言われる。 私はいいことを聞いたと思って、すかさず言うのです。「あなた、なんて愚かなことをなさるんですか。写真というものは、あんなものはね、人間が紙に光線と薬をかけたもんや。そんなものを拝んだり、頭を下げたりしている。偶像崇拝どころの騒ぎじゃない、愚かじゃないですか」と言いますと、このことを今でも忘れないのですけれどね、大垣教区でしたけれど、その人はすかさず言ったのです。「それは違います」と言った。「どう違うんですか」と聞いたら「わしは本物の親父を知っとる」「あなた本当にいいことを言ってくださった。それであなたの問題はほどけていきませんか」と申しあげたことなのですけれど、そうですね。 本物の親父を知っていると、親父の写真はあんなものは紙に光線と薬をかけたもんやと言えますか。本当の親父を思い起こす、憶念する大切なよすがではございませんか。それと同じです。絵に描いたご本尊、木で刻んだお木像、本物のご本尊にお遇いになっておれば、人間が絵を描いた、人間が刻んだとは言えないですね。本物のご本尊にお遇いする。憶念する。かけがいのない手がかりではございませんか。だからそこです。ご本尊、南無阿弥陀仏、姿であらわせば阿弥陀如来ですけれども。そこでまた一つ話が展開するのです。そう言われても、まだちょっと解せないとおっしゃるのですね。何ですかと言ったら、「ご本尊といっても、人間の姿で描いてあるじゃないですか。人間の姿で刻んであるじゃないですか。ご本尊って人間なんですか」と。こう端的におっしゃるのです。 仰せのとおりですね。本当に大事なご発言だと私は思います。私は今もそれを問われたら同じことを言いたいのですけれどね。言うまでもなく、ご本尊(南無阿弥陀仏)は姿かたちを超えたはたらきです。姿かたちを超えたはたらきだから、どこかにじゃないのですね、必ず姿かたちのうえにはたらき出ておってくださるわけです。姿かたちといえば、その中心というか、代表は言うまでもなく人間でしょう。だから人間の姿で描いてあるのです。刻んであるのです。 そのことでまた言います。暁烏大徳のこういうことも私は藤原鉄乗さんから聞いたのです。あるとき暁烏先生のお寺へ九州からはるばる訪ねていらっしゃったというのです。先生のご存命中は全国いろんなところから訪ねていかれるということがあったそうでありますけれども。 暁烏先生という方はお人さんが見えると、必ずまずご本堂へご一緒に来られるのですね。行かれるのです。そしてここでお座りして、ご本尊に合掌礼拝をする。それから話をする。これが暁烏先生のパターンだったというのですね。私はそれを聞きましてから、少しでもまねをさせてもらわなければならぬと思ってやっておるのですけれども。 みなさん方、日ごろどうですか。お寺へお出でになることがあるでしょう。ご本尊にごあいさつをなさっておられますか。ご本尊にごあいさつをして入っておられますか。ご本尊のほうは見向きもしないで、いきなりご住職やら坊守さんやらに話をして、さよならと言って帰っていくわけでしょう。お寺へ来たことにならぬですね。 主はご本尊ですから、主にごあいさつをしなくてどうしますか。それが暁烏先生のご信念だったのであります。今の話を、もうひとこと聞いてください。暁烏先生と二人ここへ並んで合掌してお参りしていた。その人が暁烏先生に、ご本尊を指さして「先生、私はあの人に会いたいのです。あの人がわからぬので、はるばるここまで訪ねて来たのです」。真剣に訴えたそうです。 そのとき暁烏先生が何とおっしゃったですか。「ああ、あの人か。あれはな、ここまで訪ねてきたあんたの姿や」。これに私は本当に絶句させられますね。姿かたちを超えたはたらきとしてのご本尊は、姿かたちのうえにはたらき出ております。今日なら今日、同じことですよ。みなさん方が時間をこしらえて、今日はこうしてご参加くださいました。たしかにみなさん方が出てきてくださったのだけれども、「あんたの姿やぞ」と言うてくださるのじゃないでしょうかね。本当に押し出されている。 ご本尊が人間の姿で描いてある。人間の姿で彫刻がしてある。ここがもっとも私は厳密なところだと思いますね。だからこそご本尊なのです。どこかに鎮座ましますというようなものではございません。だからご本尊を合掌礼拝することにおいて、私たちは本当にこの「いのちの真実」が呼びかけてくださっておる。「あんたが生きとるんじゃないよ。本当の主体に目覚めて生きてください」と呼びかけてくださっておる。それが称名念仏じゃございませんか。 福井のある女性です。去年でした。これも忘れられませんので、もうひとこと言わせてください。57歳とおっしゃった女性です。主婦の方です。その人の跡取り息子さんが別居されて家を建てられた。それで母親さんが見にいったわけです。 そしたら案の定、ハイカラなモダンな現代風の家ができあがっておる。中へ入るとみんな洋式。ところが一間だけ和室があった。思わず息子さんに聞いたというのです。「この部屋、どうするのや」、息子さんいわく「ここか、ここはお父ちゃんやお母ちゃんが来てくれたときにな、寝てもらう部屋や」、調子のいいことを言った。そしたらその女性が言いました。「ところであんた、お仏壇はどこへ置くのや」。 床の間はしつらえてあるのですけれども、お仏壇を奉安する場所は設定してないですね。息子さんが言った。「お仏壇ならここへ置けないこともないよ」床の間を指してね。そしてなんと言ったか。「そんなことはな、お父ちゃんやお母ちゃんが死んだら考えるわ」。私は思わず息子に言いました。「あんたな、お仏壇もなくして、子育てができると思うとるのか。"僕、なんで生まれてきたの"と子どもから問われたら、なんと答えるのや」。このひとことを聞いて、本当に絶句しましたね。 みんな、お仏壇を「死者壇」にしているわけでしょう。死んだ人を祀るものにしているじゃないの。今の女性からすると「子育て壇」ですよ。ご本尊の教育を受けていくお台です。そこまでしっかりと受けとめてくださっておる人が現にいらっしゃるということを目の当たりにして、とてもなんか頼もしいというか、感動しました。 「お仏壇もなくして子育てができると思うているのか」 どうかみなさん、その一点において、ご本尊に礼拝合掌させていただいていくことによって、本当に「いのち」の声を真実の主体となってくださっていくご本尊を私たちは聞いていく。ご本尊にお遇いしていく。そういう生活をさせていただきたいと思うわけでございます。 ![]() 時間が過ぎたことでございます。今日はこうした大会にみなさんとお遇いさせていただいて、本当にありがたく思っております。どうか「南無阿弥陀仏をとなうべし」と。このひとことはみなさん方もこころにとどめて、いよいよ相続をなさっていただきたい。こころから念願をすることでございます。最後までご聴聞くださって、ありがとうございました。 |